もどかしい気持ちを母にだけぶつけて泣いた

── そういう苦しい気持ちは誰かにお話しされていましたか?

 

中村さん:それが、昔から人に弱みを見せるのが苦手な性格だったので、誰にも話すことはありませんでした。むしろ、お見舞いに来てくれた友達のほうが真っ青な顔をしていたりするので、「大丈夫だから」と無理に明るくふるまっていたんですね。でもやっぱり、もどかしい気持ちが強くて、母親にだけはきつく当たってしまっていました。中学生の反抗期みたいな感じで、やってくれようとしたことに対して「そんなのいいから」とはねのけたりして。そういうときも母は僕の前で気丈に振る舞っていましたが、のちに「あのとき、本当はつらかった」と話していました。

 

中村珍晴
中村さんの結婚式にて、お母さんとのツーショット

── 中村さんの前ではお母さんもつらい顔を見せなかったんですね。

 

中村さん:そうですね。でも、一度だけ母と言い合いになったことがあって。入院して3か月後のクリスマスイブ、午後から友達がケーキを持ってお見舞いに来てくれる予定だったんです。その日は日曜日でリハビリがなかったので、午前中は母が僕の足のストレッチをしてくれていたんですが、母は今ひとつうまくできない。専門家じゃないからうまくいかないのは当然なのに、「やり方が違う」と当たってしまった。そんな些細なことから言い合いになったとき、母に向かってポロっと「こんな自分は嫌だ、もう死にたい」と言ってしまって…。それが唯一、つらかった気持ちを吐き出した瞬間でした。それからしばらく、母とふたりで泣いていたことを覚えています。でも、本音を口に出せたことですっきりしたのか、その後は僕も母も気持ちが軽くなったんですよね。

 

── そうなんですね…。お兄さんからかけられた言葉も、前を向くきっかけになったそうですね。

 

中村さん:はい。僕には4歳上の兄がいて、当時は愛知県の会社で働いていました。兄はすごくやさしい性格で、男兄弟ですがケンカをしたこともありませんでした。就職して家を出た兄とは4年くらい会っていなかったのですが、入院してからは毎週のようにお見舞いに来てくれて。母との一件があった少し後くらいに、お見舞いに来た兄から「仕事を辞めて理学療法士になろうと思う。ハル(中村さんの愛称)の苦しみやつらさをすべて理解することは無理やけど、少しでもいいから力になりたいんよね」と言われたんです。突然のことで最初は驚くばかりでしたが、投げやりだった気持ちが徐々に変わっていったんです。

 

当時、僕は事故に遭って全部失ったと思ってたんです。二度と歩けず、このまま寝たきりになるかもしれないと言われて、青春も失って…未来は真っ暗だと思っていました。そんななかでも支えてくれる人がたくさんいることをあらためて実感したんです。兄は自分の安定した生活も仕事も捨てて、弟のために動こうとしてくれている。それだけの思いを受けたら、このままじゃダメだって思いました。当時、身体はほとんど動かなかったし、院内感染から回復したばかりで体力も全然なかったけれど、ここから少しでも回復する努力をしなきゃって気持ちが芽生えて。真剣にリハビリに取り組むようになりました。

 

兄はそのあと本当に仕事を辞めて、僕のリハビリと介護を手伝いながら専門学校に通い、現在は理学療法士として病院で働いています。もし自分が逆の立場でもここまでできない気がします。そんな兄を心から尊敬しています。

 

 

退院後は実家に戻り、家族のサポートを受けながら丸2年間リハビリに取り組んだ中村さん。なかなか回復できず引きこもりがちになっていたとき、地元の友人の誘いで成人式に参加します。これが大きな転機となり、大学への復学が実現、再びアメフト部にもかかわるように。自分のできることを模索するなかで、チームの頭脳としての役割を担うようになり、4年間ヘッドコーチを務めました。

 

取材・文:小新井知子 写真:中村珍晴