「いつか自分の店を持つ」から逆算して

マダム信子
銀座でクラブのママをしていたころ

── 銀座に自分のお店を持つということは、並大抵のことではないと思います。どのように準備を進められたのですか?

 

マダム信子さん: いちばんの問題は資金がたりなかったことです。そこで、それまで築いた人脈のなかから有力な5人のお客さまに「私に投資してください」とお願いし、事業計画書を見せながらプレゼンしたんです。「うまくやっていく自信があります」と真正面から思いをぶつけました。その5人のお客さまには「年会費無料員」になってもらい、お店をどんどん使っていただく。政財界にすごい人脈を持った方ばかりなので、彼らがいいお客さまをたくさん連れてきてくれる、という仕組みです。

 

── 今でいえば「クラウドファンディング」にも通じる発想ですよね。

 

マダム信子さん:当時はすべて手探りでした。ただ、子どものころから貧しい暮らしのなかで「どうすればお金が稼げるのか」を常に考えてアンテナを張っていたので、その独立精神が役立ったのでしょうね。

 

ホステス時代も「いつか銀座で店を持つ」と決めていたので、将来の出資者を探すつもりで接客していました。「こいつには投資する価値がある」と思わせるために、経営の話も対等にできるように勉強して、商才があることをさりげなくアピールしていたんです。

 

──「いつか自分の店を持つ」というゴールから逆算して動いてこられたのが印象的です。視座が当初から違ったのですね。そうした地道な種まきが実を結んだ、と。

 

マダム信子さん:折しも時代はバブル全盛期。その勢いに乗ってお店はすごく繁盛しました。お客さまにはマメに手紙も書きました。誤字脱字が多くて言葉づかいもていねいじゃないけれど「心が感じられていい」と喜ばれたんです。ビジネスの基本は人と人。「心」で接することがすべての原点になっています。

 

── そして、47歳のときに銀座のお店を売却して大阪へ戻られます。何が転機だったのですか?

 

マダム信子さん:妹の旦那さんが事故で亡くなり、妹から「帰ってきてほしい」と言われたことがきっかけです。 ちょうどそのころ、景気が悪くなって銀座の接待が一気に減り始めていました。「そろそろ潮時やな」という経営者としての直感もあり、店を売却して大阪に戻ることにしたんです。