大阪・銀座と夜の世界で成功を収めたマダム信子さん。47歳で再び大阪に戻り、新たに焼肉事業を始めますが、泥棒や放火に見舞われ、1億円の借金を追うことに。人生のどん底から立ち上がって選んだ道が、のちに一大ブームを呼ぶ「マダムシンコ」に繋がっていきます。

「大阪だけでなく銀座でもNo.1」

マダム信子
子ども時代は金銭的に苦しかったが20代で実業家になり活躍

── ヒョウ柄のパッケージで知られる「マダムシンコ」のバウムクーヘン。創業者のマダム信子さんは、一代で関西スイーツの女王と呼ばれるまでになりました。幼少期の極貧生活をバネに、20代で大阪の水商売で頂点を極めた信子さんが、39歳で、次の舞台に選んだのは東京・銀座。なぜあえて「アウェイ」な場所に挑もうと思われたのでしょうか。

 

マダム信子さん:大阪で自分の店を経営しながら、勉強のためにいろんなお店を見て回っていたんです。そんなとき、あるお客さまから「一度、銀座の店を見てみたらどう?」と言われ、初めて銀座の地を踏みました。「大阪ではいちばん」という自負がありましたが、銀座のきらびやかさはケタ違いでした。普通なら尻込みする場所ですが、私は逆に「自分の力がどこまで通用するか試したい」と燃えたんです。人生は1度きりですから。「私なら絶対できる」と自分を信じ、チャレンジしようと決めました。

 

── とはいえ、大阪と銀座では、街の空気や流儀は違いますよね。勝算は、どのあたりにあったのでしょうか。

 

マダム信子さん:お店の女の子たちが、関西と違って大人しかったんです。みんな上品なんだけど、愛嬌がたりないなあと感じて。装飾品も控えめで品よくまとまっているのに対し、大阪から来た私は全身ギンギンギラギラ(笑)。でも、「こういうタイプがいないからこそおもしろいんじゃないか」と。目立つことは武器にもなりますからね。

 

銀座のお花屋さんで老舗の店を聞いて、女ひとりで客として飲みに行きました。その場でママと意気投合し、採用が決定。すぐに大阪の自分の店に電話して「明日からこっちで働くことにしたから店をお願いね」と任せました。

 

── 決断に迷いがなく潔いですね。実際に経験した銀座の現場はいかがでしたか?

 

マダム信子さん:私の関西弁とキャラクターが「元気がよくておもしろい」とお客さまにウケてすぐに人気者になりました。その後、店を変えましたが、半年経つころにはナンバーワンに。当初から「短期間で勝負しよう」と決めていたので、人脈を広げることに意識を向けていました。銀座に来て9か月後には「そろそろ自分の店を持とう」と決断していましたね。

 

── こうと決めたら突き進む。そのエネルギーはどこから来るのでしょう。

 

マダム信子さん:人生には絶対、逃してはいけない勝負のタイミングがあります。そのときに動くかどうかで流れが大きく変わると思うんです。ここで踏ん張れなかったら次はない。それくらいの気持ちでした。