親が韓国人という理由で受けた差別

── 暮らしの厳しさに加えて、親が韓国人という理由で周囲からの差別もあったとうかがいました。そうした理不尽な経験を、当時どんな思いで受け止めていましたか。

 

マダム信子さん:私たちくらいの年代は、貧しさと隣り合わせの時代でしたし、家族で助け合いながらの生活は、振り返ると楽しい思い出でもあります。でも、親が韓国人という理由で受けた差別は、本当にしんどかった。

 

10歳まで島根にいたころは親戚に囲まれていたのでつらい記憶はないのですが、その後、大阪に引っ越してからは壮絶ないじめにあいました。周りの子から「臭い臭い」と言われて。毎日キムチを食べていたから体ににんにくの匂いが染みついていたんでしょうね。

 

服ももらい物ばかりで、破れていたりサイズが合っていなかったり。大きな袖を何重にも折って着ていました。

 

同級生だけではなく、先生も冷たかったんです。水泳大会のアンカーで1位になっても、私にだけ表彰状を渡してくれない。そんなことは日常茶飯事でした。数年前、その先生から「80歳のお祝いに、教え子代表として祝辞を述べてほしい」と連絡がきたんです。当時のことを思い出すと胸が痛みましたが、今の私は一国一城の主。成長した姿を見せたい気持ちもあって駆けつけました。久々に会った先生に「あのとき、表彰状をちゃんと渡してくれたらうれしかったです」と伝えたら、「そんなことあったかいな?」なんてとぼけるんです。その後も自分に都合のいいことばかり言うものだから、「それ、間違ってますよ?」とはっきり言い返しました(笑)。

 

── やられた側の記憶は、ずっと残るものですよね。本来は味方でいてほしい先生からそんな態度を取られると、なおさらです。

 

マダム信子さん:でも、やられっぱなしになる性格ではなかったので(笑)。理不尽なことには相手が誰でも立ち向かって言い返していましたね。ただ、いちばん堪えたのは、好きだった男の子が私が韓国人だと知った途端に態度が豹変したこと。あれは本当にトラウマになりました。

 

中学を出た後は、経理の専門学校に進みました。本当は高校に行きたかったけれど、父に「女の子は学歴なんていらん」と言われて反対されて。父は私をかわいがってくれましたが、とにかく厳しくて、家の中はまるで檻のように感じる時期もありました。だからこそ、「早く自分の人生を生きたい」という思いは人一倍強かったですね。