3歳で判明した感音性難聴
── ご自身の耳のことをおうかがいしたいのですが、生まれたときから耳が聞こえなかったのでしょうか?
堀さん:生まれつき「感音性難聴(内耳、聴神経や脳の障害が原因で音の信号が脳に正しく伝わらない)」だったようですが、そのことが判明したのは3歳のときだったと母から聞かされました。幼かったので私自身はそのころの記憶があまりありません。
病名が判明するまでは親が病院をいくつか回っても、風邪としか判断されなかったと聞きました。ようやく障がいであることが病院で告げられてからは、母も不安だったと思いますが、補聴器を用意してくれたり、保育園をどうするかなど考えてくれたりしたそうです。私自身は補聴器をつければ人の声はだいたい聞き取れますし、話し手の唇の動きで言葉を理解する口話も身につけ、ふだんのコミュニケーションはそこまで不自由はしていません。
親も病名がわかって以来、手話や口話を学んで使っていくようになり、幼いころから全面的にサポートしてくれて感謝しかありません。保育園は最初、ふだんは健聴者が通う園に通い、週1日は難聴者の子だけの園にも並行して通園していました。ただ、徐々に後者の園に通うように。健聴者だけの園は、どうしても耳が聞こえない子どもに対する知識や理解が乏しく、私自身のことを考えて耳が聞こえない子たちだけの園のほうが過ごしやすいと判断したからだそうです。小学校以降は、難聴者の学校に通いました。
── ご本人としても小さいながら大変だったと思いますが、親御さんも根気よく対応したことがわかりました。その後はどうされたのですか?
堀さん:ろう学校の高専科に入学したのですが、環境になじめず辞めてしまいました。その後は、少しでも社会経験を積みたいと思ってアルバイトをしながら、ビーチバレーを続ける生活でした。最初は大手ハンバーガーチェーンの裏方として働くアルバイトに就きました。応募時に難聴者であることはお伝えして、ほかのスタッフの方からも理解され、協力的な環境でした。
ただ、全員が全員そうではないので、人間関係で難しい面もあり、1年で辞めて、その後は飲食店でホールスタッフとして仕事をしました。お客さまからオーダーをとる際、聞き取れず繰り返し聞くこともあり、途中から「難聴です」という缶バッジをつけて働くと、多くのお客さまも気づき配慮してくれたのでなんとか続けられました。といっても、それなりに人間関係は難しい面があります。
でも、私はアルバイト帰りに社会人のビーチバレーボールチームに入って練習していたので、そこでは健聴者も難聴者も関係ありません。純粋に競技に打ち込めて、みんな同じ競技の仲間だったので、ひとつの居場所ができた感覚があり、メンタル的に安定できたのは大きかったと思います。練習は週3、4日で、長いと1日に3時間程度は行っていました。