10歳まで里親に育てられ、その後実母と暮らす道を選ぶも、あまりに過酷な日々に耐えられなくなり、みずから児童養護施設を選んだ米田幸代さん。その後も実母に振り回され「自分の人生を食べられる」ような苦しみを味わいましたが、どんなときも100%自分の味方でいてくれた里親のおかげで今がある、と振り返ります。(全3回中の3回)
星空を眺めていて「自分は幸せだ」と突然気づいた
── 生後間もなく里親に預けられ、10歳まで里親のもとで育った米田さん。実母から申し出があり一緒に暮らし始めてからは、ヤングケアラーのような状況で過酷な日々だったとうかがっています。15歳でみずから希望して児童養護施設に入り、高校卒業後は看護学校へ進学されたとか。それでも実母との関係を断ち切れず、お金の無心が続いて極限に追いこまれたとき、里親に助けられたそうですね。
米田さん:はい。学費に充てるはずのお金を母に貸したら連絡が取れなくなってしまい、困り果てて体を売ることまで頭をよぎりました。でも、ふと里親の顔が思い浮かんで、きっとそんなことをしたら悲しむだろうなと思ったんです。それで、思いきって里親に電話をしてお金を貸してほしいと初めて頼みました。そうしたら、返さなくていいからとすぐにお金を振り込んでくれたんです。そのときに、里親が今までどれだけ私のことを愛してくれていたかを思い知りました。
10歳で里親のもとを離れてからは全然、会っていなかったんです。でも、その出来事があってから、少しずつ交流するようになりました。といっても、会うのは1〜2年に1回くらいのペースでした。どうしても里親の本当の家族に気をつかってしまう部分があって。里親には実の子どもたちや孫がいますし、家に行っても、ここは自分の居場所ではないと感じていました。でも、里親と一緒にいる時間はやっぱりホッとできたんですよね。里親が高齢ということもあり、これから一緒に思い出を紡いできたいという気持ちが徐々に強くなっていきました。
── 実親との関係はどうでしたか?
米田さん:学費に充てるはずのお金を絶対返してねと伝えて貸したのに返ってこなかったことが本当にショックで。それを機に、母とは距離を置こうと決めました。自分の電話番号を変えて母からの電話を拒否したんです。どうしても母の様子が気になるときは、非通知で電話していました。でもやっぱり母は電話口で「お金を貸してほしい」と催促するんです。それがしんどくて、私から電話は徐々にしなくなりました。
── 里親とも実母ともどんな距離で接していいかわからず、悩んでいたのですね。でも、考え方が大きく変わった出来事があったそうですね。
米田さん:そうなんです。本当に些細なことなんですが…30代前半で初めてスキー場に行ったときのことです。頂上から空を見上げると、こぼれそうなほど満点の星空が広がっていて、本当にきれいで。その星空を見ながら車で帰ったんですが、街に近づくにつれて街の明かりが強くなり、雲も出てきて星空が見えなくなっていきました。でも、目に見えないだけで、あの星空はちゃんとあって、燦然と輝いている。そう思ったら、自然と涙が出てきたんです。なんというか、私の暗い気持ちと雲に覆われた星空が重なって見えたんですよね。

この世界をこうやって生きているのは、自分で勝手に自分の世界にモヤをかけているだけなんじゃないかって。ずっと世界は不平等で私だけつらい思いをしていると思ってきたけど、よく目を向けたら、里親や中学校の教頭先生、児童養護施設の先生など、私は多くの人に愛されて育ってきた。世界は本当はとても美しいのに、それを見ようとしなかっただけなんじゃないか。それに気づいたら、感謝の気持ちが持てるようになり、私は幸せだなと思えるようになりました。そして初めて、母に「お金を貸さない」と言えるようになったんです。