里親、実母との暮らしを経て、児童養護施設で育った米田幸代さん。18歳からは看護師を夢みて、住み込みで働きながら学び始めます。そんななか、実母からはお金の催促が、里親からは思いがけない支援の手が。二人の親の間で見つけた「本当の親子」の意味とは。(全3回中の2回)
実母からのお金の無心を断れず
── 0歳から里親の元で育ち、10歳で念願の実母と暮らし始めたものの、ひとりで家事全般を担わされ、うまくできないと叱責されるなど、過酷な状況が続いたそうですね。その後、15歳のときに中学校の先生に相談し、児童養護施設に入ったとうかがいました。施設で暮らしていたころ、実母や里親との関係はどんな感じだったのでしょうか。
米田さん:母とは児童養護施設が主催するイベントで会ったり、お互いに電話をかけて話したりしていました。みずから母と離れる決断をしたものの、私にとっては唯一の親なので…どうしても母のことが気になってしまうんです。
常に生活に困っていた母からの電話の内容は、お金の催促ばかりでした。一緒に住んでいたときから、大人相手にお金を借りてこいと言われ続けてきたんです。でも、誰も貸してくれたことはなく、自分がみじめでした。もうあんなことはしたくない…と思うのですが、断れなくて。そんなときはきまって、一緒に住んでいたときに何度も聞いた「幸代が助けてくれないとお母さん死んじゃう」という母の口癖が、頭の中で勝手に再生されるんです。だから結局、母を助けたくてお金を借りに行ってしまう。児童養護施設の先生は「行かなくていいんだよ。お母さんはお母さんの人生、幸代は幸代の人生があるんだから」と泣いて止めてくれたけど、それを振りきって行っていました。結局、そのときも誰もお金を貸してはくれませんでしたが…。
里親とは手紙や電話で繋がっていましたが、会うことはありませんでした。自分で里親の元を離れ、母と暮らすことを決断したので、簡単に会いたいとは言い出せなかったんです。心配をかけたくないという思いもあり、母との間に起こった出来事は伝えませんでした。
── 当時は18歳になると児童養護施設を出ることになっていたと思います。18歳以降の進路は米田さんにとって大きな課題になったのではないでしょうか。
米田さん:はい。当時は「自立援助ホーム」や「ファミリーホーム」(※)が選択肢としてなく、高校卒業後は地元から遠く離れた看護専門学校へ進学することにしました。母と離れて、自分の人生を生きようと思ったんです。保証人がいないので家は借りられず、病院の一室に住み込みで働きながら通いました。
※どちらも義務教育を終えた20歳(状況によっては22歳)までの子どもが入居できる。自立援助ホームは、子どもたちが経済的にも精神的にも自立できるように支援することが目標。ファミリーホームは、里親経験者などが自宅で5、6人の子どもを受け入れ、家庭的な環境で生活習慣や社会性を育む制度。
看護師を目指したのは、児童養護施設の先生の勧めがあったからなんです。高校で進路希望を提出するとき、私はお金がないから就職するのが当たり前だと思っていて、進学する気はありませんでした。お金の心配をせずに大学を受けられる周りの子が羨ましくてしょうがなかったし、どうして私は何も悪いことをしていないのに、普通の家庭に生まれてこなかったんだろうと悲しくなりました。そんな私を見て、児童養護施設の先生が声をかけてくれたんです。

「幸代は家族を頼れないのだから、手に職をつけて生きてほしい。幸せになってほしい。幸代は学ぶ意欲があるし責任感が人一倍強くて与えられた仕事はまっとうするから、看護師なんか向いているかもしれないね」って泣きながら言ってくれて。当時はなりたい職業を思い描いていたわけではなかったので、信頼している先生がここまで言ってくれるのだから頑張ろう、先生の言葉に応えたいと思って進学を決めました。