同居をもちかけたら「私は富山、あなたは東京」
── 高齢で「要介護4」から「要介護1」まで回復するのは、驚異的ですね。ふつうなら気力を失いがちなものですが、「やりたいこと」をつねに掲げてリハビリに取り組めたことがよかったのでしょうか。
柴田さん:そう思います。母はとても自立心の強い人でしたから、自分の暮らしは自分で守る気持ちがずっと揺るがなかったのでしょうね。
── 2016年にお父さんを亡くされたとき、「東京で私と一緒に暮らさない?」と提案されたそうですね。
柴田さん:はい。でも、母からは「自分の人生は自分だけのものだから」と、きっぱり断られました。「私は富山で生きる。あんたは東京で仕事を頑張りなさい」と。じつは、提案した時点で、「きっとそう言うだろうな」と思っていたんです。母は長年、教師をしてきたので、地元には4世代にわたって教え子がいますし、退職後は茶道の先生もしていました。
姿が見えない日があると、「風邪でもひいた?大丈夫?」と、心配して訪ねてきてくれる人もいます。そんな地域のつながりのなかで、ずっと支えられながら暮らしていたんです。いわば町じゅうに親戚がいるようなもので、ひとり暮らしといっても顔見知りが多く安心でした。
そんな母が知り合いが誰もいない東京で、しかも仕事で留守がちな娘と暮らしても寂しい思いをするだけです。母の大事なものは、すべて富山にある。それをあらためて実感したので、東京にいながら富山の母を支える「遠距離介護」の選択に至りました。

── 東京にいながら、富山のお母さんを支える「遠距離介護」。どんなふうに環境を整えていったのでしょう?
柴田さん:まず、母が自宅に戻る前に実家を片づけ、介護保険を使って手すりを増やし、介護ベッドも準備して、家の環境を整えました。その後はケアマネジャーさんと相談して、週2回はデイサービスへ。それ以外の日はヘルパーさんや看護師さんなど、毎日、誰かが訪問するように手配しました。
じつは最初、もう少しデイサービスの日数を多めにしていたのですが、母から「自由がない」とクレームが入り、週2回に落ちついたんです。お茶や謡曲のお稽古に行く日、お茶の先生として教える日、友人と会う日など、母の希望を聞きながら、一緒に1週間のスケジュールを組んでいきました。
── お母さんのライフスタイルを尊重しながら、見守りやすい環境を作っていったのですね。
柴田さん:その後もひとり暮らしを続けていましたが、転倒して病院に入院したり、施設に移ったりといったサイクルを何度か繰り返すようになりました。ちょうどそのころ、コロナ禍になり、施設や病院でも面会制限がかかってしまって。その間は職員の方に協力してもらい、週に2回ほどビデオ通話で顔を見ながら話すようにしていましたね。