近くで見守れないぶん「会話で心の恩返しを」
── お母さんとの時間を重ねるなかで、どんなことを心がけていらっしゃいましたか?
柴田さん:私にとって介護は、子どもとしてできる最後の「恩返し」でした。いちばん大切にしたかったのは「心のコミュニケーション」です。感謝の気持ちを言葉にして伝えたり、昔の思い出を一緒にたどったり。そうやって、心を通わせる時間を少しでも増やしたいと思ったんです。「育ててくれてありがとうね」と伝えると、母は「私はそんなにいい母親じゃなかったよ。あんたのこと、放ったらかしにしてきた」なんて言うんです。教師ひとすじで働いてきた母は、子育てに十分な時間を割けなかったと感じていたようでした。
でも私は「そんなことないよ、いつも幸せだった」と伝えながら、一緒に思い出をたどっていきました。かけてもらってうれしかった言葉、旅行でのできごと、ケンカをしたこと、愛犬が死んで一緒に泣いた日…。そうした記憶を語り合っていると、母の顔がふっとやわらぎ、「あぁ、そんなこともあったね、幸せだったね」と笑顔になるんです。その表情を見て、私も胸が温かくなりました。
── 幸せな時間を一緒にたどりながら感謝を伝える。そんなやりとりそのものが、親子のかけがえのない時間になっていたんですね。
柴田さん:親が元気なころは気恥ずかしさもあって、感謝をなかなか口にできませんでした。お互い気が強いから、帰省しても3日も顔を合わせれば親子ケンカが始まってしまう。でも、介護を通して気づいたんです。子どもが笑っていると、それだけで親は幸せなんだなと。感謝の気持ちを言葉にして伝えることが、こんなにも母を笑顔にするなら、もっと早くそうしていればよかったなと今になって思います。
── 遠距離介護を6年続けられ、お母さんは今年の1月に95歳で亡くなられたそうですね。
柴田さん:2022年に腸閉塞を起こしたことがきっかけで、点滴で栄養を摂るようになり、病院での生活が続くようになりました。年齢なりの物忘れはありましたが、最期まで頭はしっかりとしていて、「お母さん、次は何がしたい?」と尋ねると、やりたいことが次々と出てくるんです。じつは縁あって、生まれ故郷の富山・八尾町に新設された中学校の校歌の作詞を私が担当することになったんです。教師だった母は大変喜び、開校式で子どもたちが歌う姿を楽しみにしていたのですが、当日は入院中で叶いませんでした。
後日、録画した映像を母に見せると、子どもたちの歌声に励まされ、とても感動していたんです。そこで、「退院したら一緒に中学校を訪れようね」と声をかけました。その約束が、母の支えになっていたのだと思います。2024年6月には、本当に2人で中学校を訪問することができたんです。最期まで、母は本当に気丈な人でした。
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富山に暮らす母を東京から見守り、6年にわたって遠距離介護を続けてきた柴田理恵さん。要介護4から1へと回復するほど気丈に生き抜いた母。その姿を見守る日々は、柴田さんにとって「最後の恩返し」でもあり、みずからの老後や人生を考えるきっかけにもなったといいます。入院中にかつての教え子や若い看護師さんと楽しげに話す母の姿を見て、「私もこんなふうに、いろんな人と関わりながら生きていけたら、きっとこれから先の人生も笑顔でいられるのだろうな」と思ったそうです。
取材・文/西尾英子 写真提供/柴田理恵