特派員の夫に帯同しカイロに移住

── スマホもインターネットも普及していない時代で、情報が少なく、不安だったのではないでしょうか。会社から打診されたとき、家族で話し合いの時間は設けたのですか?

 

入江さん:海外赴任は本人が希望を出していたので、夫は「絶対に行きたい」という感じでした。20代後半という若さで特派員として派遣される前例はなかったものの、彼の熱意によって決まったようです。私としてはもちろん「おめでとう」という気持ちだったけれど、2歳前の長男を連れて海外に移住するのは大変だろうなという心配がありました。日本からいろいろなものを買い込んでいったことを思い出します。でも、ふたりともまだ若かったので、「ふたりなら何だってできる」という気持ちでしたね。

 

── 実際のところ、海外生活に不便を感じませんでしたか?

 

入江さん:当時はパソコンはあったのですが、携帯電話も衛星電話と呼ばれる大きな電話しかなくて。カイロから日本は簡単に帰国できる距離ではなかったですし、心細さはありました。治安の問題もあるので、日本人が多い地域に住んで「日本人会」というコミュニティに参加して。そこで知りあった日本人のご家族とホームパーティーを開いたり、日本の食材を分けていただいたりと、ずいぶん助けていただきました。

 

でも、カイロでの子育てはやっぱり大変でした。ベビーカーは車輪が砂に埋まって進まないこともしょっちゅうで。夫はアフリカへ取材に出かけたりと忙しく不在がちで、いつもひとりだったので、「こんなはずじゃなかったのに」と思うことも。最初のころは特に寂しくて、ナイル川のほとりでよく泣いていました。

 

── それは大変でしたね…。移住した当初、任期などは聞いていたのですか。

 

入江さん:最初は3年ほどと言われていましたが、実際は3年を超えていました。長男が4歳のころ、2人目の妊娠がわかって。カイロの病院は衛生面が心配だったので、イスラエルのエルサレムで出産することになったんです。

 

── 慣れない海外での出産は想像以上に大変だと思います。帰国して出産することは考えなかったのですか。

 

入江さん:カイロでの生活はたしかに大変でしたが、新しい環境に慣れるのはわりと早いほうだったし、夫と一緒にいればどんなことがあっても大丈夫だろうと思っていました。エルサレムには素晴らしいホテルがありましたし、現地の病院では、当時はまだ珍しかったLDR(Labor・Delivery・Recovery)という、入院している部屋から分娩室に移動せずに出産できるシステムが導入されていて、むしろ日本より先進的でした。取材のため、夫がしばらくエルサレムに滞在していたことも心強かったです。

 

── 言語面では、どのようにコミュニケーションをとっていましたか?

 

入江さん:日本人やイギリス人が多い地域だったので、英語が通じたのはありがたかったです。長男はインターナショナルスクールに通っていたので、今でも発音がいいんですよ。その影響もあってか、長男は現在、大学で教鞭を執り、英語を使って教えています。