1994年12月、ケニア・ナイロビでルワンダ難民取材のためのチャーター機が墜落。当時フジテレビのカイロ支局長だった入江敏彦さんが搭乗しており、32歳という若さで亡くなりました。妻の入江のぶこさんはお天気キャスターから専業主婦となり、熱血漢の夫を陰で支えていたそう。突然の夫の死を受け入れられず失意のなか、「子どもたちのことだけを考え、必死に生きていた」といいます。(全3回中の1回)
夫とは大学卒業前に婚約をして
── 入江さんは、大学在学中にニュース番組のお天気キャスターに抜擢され、まだ前例がないことで注目を集めました。どのような学生時代だったのでしょうか。

入江さん:人前で話す機会が多い今の様子からは想像できないかもしれませんが、もともと人見知りな性格で、いつもひとりでいるようなタイプでした。ひとりっ子で、母は少し抑圧的なところがあり、こうしなさい、ああしなさいと言われて。今思い返すと、自己肯定感が低い10代を過ごしていました。学生のころは陸上部や女子ホッケー部に入っていましたが、熱心ではなかったですね。身体を動かすより、文章を書くほうが好きでした。
幼稚園からエスカレーター式の私立の学校に通っていたのですが、成績がわりとよかったんです。周りからは「附属の大学よりも、早稲田や慶應を目指したらどうか」と言われ、予備校に通ったこともあります。でも、なんとなく周りの雰囲気に馴染めなくて…。結局そのまま附属の大学に進学しました。当時は「大学に行ってこういう職に就きたい」という明確な目標はなかったんです。
── そこからお天気キャスターなったのは、どのような経緯で?
入江さん:他大学の学生と交流したいと思い、「コスモピア」という女子学生が起業した団体のメンバーになったんです。知識のある学生コミュニケーターをさまざまな場所に派遣する集団で、当時は珍しさもあってマスコミに取り上げられ、話題になりました。その流れで、フジテレビから「お天気キャスターのオーディションを受けませんか」と打診があって。数人でオーディションを受けたところ、たまたま私が選ばれました。
アナウンサーの故・逸見政孝さんにごあいさつに伺ったら、「テレビに出るということは遊びではないんだからね」という厳しい言葉をかけられた思い出があります。当時はまだ、女子大生がお天気コーナーを任されることなんてなかった時代。特にプロのアナウンサーから見たら、いきなり素人に天気の原稿を読ませるなんてさぞ不安だったでしょう。
── そのお仕事がきっかけで、のちに夫となる入江敏彦さんと出会われたのですね。
入江さん:そうです。現・神奈川県知事の黒岩祐治さん(元フジテレビキャスター)が世話好きな方で、報道記者とお天気キャスターを集めて会食を開いてくれて。そこで、当時報道記者1年目だった夫と知り合いました。夫の一生懸命な人柄にひかれて、大学卒業前に婚約しました。卒業式には大きなバラの花束を持って迎えに来てくれて。当時はそういった華やかなことが好まれる時代だったのもありますが、やっぱりうれしかったですね。

── 素敵なエピソードですね。卒業後は就職されたのですか?
入江さん:お天気キャスターの仕事の合間に就活はしていて、興味があった出版社やアナウンサー採用試験を受けたんです。でも、アナウンサーの最終面接で「入社してどんなことがしたいか」と聞かれて「アフリカで取材がしたいです」と答えたら、「お風呂に入れないし、メイクもできない環境でも大丈夫?」と返され、言葉に詰まってしまって…力及ばずという感じでした。
卒業と同時に結婚し、シンクタンクでしばらく働きましたが、長男の妊娠を機に退職し、専業主婦になりました。当時、夫はいつも忙しく、会社からポケベルで呼び出されたらすぐに出社、という状況でした。でも本人が「報道記者をやりたい」と強く願っていたことはわかっていたので。こういう仕事の人と結婚したのだからと、忙しいのは覚悟していました。だからこそ、テレビの画面越しに彼が取材しているのを観られることが喜びだったんです。その頑張りが認められたようで、夫は希望していたカイロ支局への赴任が決まりました。