プレッシャーで爪を噛んでいたことも

金澤翔子
カフェでサラダを作って

── 翔子さんの「第二の舞台」として喫茶店がいいだろうと思われたのはなぜでしょうか。

 

金澤さん:「いつか喫茶店をやりたいね」という話は親子で昔からときどきしていたんですよ。翔子は人との交流が大好きなので、接客業は向いているとずっと思っていました。そんなふうに私の終活と翔子のこれからの居場所を考えた結果として、2024年12月にオープンさせたのが「アトリエ翔子喫茶」です。今、翔子はこの店でウェイトレスとして接客をしています。今は毎日夜の11時に寝て、朝8時に起床、おしゃれをして出勤する規則正しい生活を送っています。毎日、本当に楽しそうですよ。

 

振り返ってみれば、書家として活動していた日々は楽しいことばかりでは決してありませんでした。むしろ、翔子自身は苦しみのほうが大きかったかもしれません。大きな作品を書き終えた後は私のそばにそっと寄り添ってきて「お母さま、楽しかったね」と必ず言ってくれる子でしたが、プレッシャーのせいか爪を噛んでしまうクセがありました。自分のためではなく、母である私が喜ぶ顔を見たかったのかもしれません。でもプレッシャーから解放された今の翔子は、爪をきれいに整えてネイルを楽しみながら、地元のみなさんやお客さまたちとの交流を楽しんで毎日を過ごしています。オーダーを取って、料理を運ぶのも上手になったし、数字がずっと苦手だったのにPayPayでの決済もいつの間にかできるようになりました。

 

ただ、書家としての活動を完全にやめたわけではありません。今もぜひ翔子にという席上揮毫のご依頼はできる限りお受けしていますし、「いつかまた本当に書きたくなったときに心の底から書きたいものを書くといいですよ」とアドバイスしてくださる方にも支えられています。だからここからは翔子のペースで続けてほしいですね。

 

── 翔子さんがカフェでの仕事を楽しむようになったことで、泰子さんの心境にも変化はありましたか。

 

金澤さん:私としてもすごく気持ちが楽になりましたね。障害を持つ子の親はみなそうだと思うのですが、「このままでは死ぬに死ねない」という気持ちが私のなかにもずっと根強くあったんです。私は書家としての翔子をずっとそのままに残すことはできませんでしたが、親として彼女の居場所をつくってあげることはできたと思っています。私が死んだ後の後見人の手続きなども、終活だと思ってすべてやりきりました。私がいなくなった後も、翔子が生まれ育ったこの街に彼女を託していけるように、できる限りのことはしたつもりです。