仕事が激減したら、ふつうは落ち込んだり焦ったりします。しかし、勝俣州和さんは「ラッキー」と、とらえました。はたから見たら「苦しい時期」を力に変えた行動が、その後の人生を好転させたのです。(全5回中の3回)

11人の大家族「夕飯の時間」に学んだ親父の教え

── 芸能界の第一線で長く活躍されてきた勝俣さんですが、どんな共演者とも呼吸を合わせ、場の空気を盛り上げていくバイプレーヤーという印象があります。

 

勝俣さん:大家族で育ったことが影響しているのかもしれません。うちは7人きょうだいと両親、祖父母も同居していて総勢11人の大家族だったんです。毎日がすごくにぎやかでした。休日には祖父母の友人が集まって、花札などを楽しむのですが、その横でお茶を出したり、お菓子をもらったり。そうしたなかで、自然とお年寄りの話を聞くのが日常になっていたんです。ただ、その話が毎回ほとんど同じ内容で(笑)。祖母に「年寄りってそういうものよ」と言われていたので、「へえ~!」「それで、それで?」と、まるで初めて聞いたかのようにリアクションしていました(笑)。

 

── ちゃんと話を聞くだけじゃなくて、そんなリアクションまで(笑)。

 

勝俣さん:そんな環境で育ったからか、聞く力や共感する力が自然と身についていったのかもしれません。夕飯の時間になると、親父が必ず「今日、学校どうだった?」ときょうだい一人ひとりに聞いていくんです。「リレーの選手に選ばれた」と言えば、みんなで拍手!親父が「じゃあ、エビフライ1個多くね!」なんていったりして(笑)。

 

逆に、ビリだったとしても、「よく頑張ったな!」と、努力をちゃんと認めてくれる。誰かが話しているときは皆ちゃんと聞いて、落ち込んでいたらなぐさめたり、元気づけたり。僕は長男だったので、幼い弟や妹がうまく話せないときは間に入ってフォローしたり、泣いている子に、「なんで親父が怒ったのか」をわかるように丁寧に伝えたり。

 

勝俣州和
高校生のころ。きょうだいとふざけ合う勝俣さん(写真奥)

そういう環境で育まれたコミュニケーションが、自分の土台になっている気がしますね。トーク番組に出ても、ほとんど緊張しないのは、あの夕食の時間が「話す練習」と「聞く練習」に自然となっていたからなのかもしれません。

「せっかくだから」と欽ちゃんを質問攻めに

── 23歳で芸能界デビュー。萩本欽一さんに見いだされ、欽ちゃんファミリーの一員としてブレイクされました。

 

勝俣さん:欽ちゃんの番組にレギュラー出演させていただき、移動の車でいつも僕だけ一緒でした。仕事のことやお笑いのことから彼女の話まで、たくさん聞いてもらっていましたね。欽ちゃんは芸には厳しい方ですが、じつはすごく優しくて。「いろいろ聞いちゃダメだよ」なんて言いながら、すごく親身になって話を聞いてくれるんです。

 

── 相手はお笑い界の大御所。ふつうなら緊張して、萎縮してしまいそうなものですが…。

 

勝俣さん:じつは僕、そもそも芸能界に長くいられると思ってなかったんです。欽ちゃんファミリーとして、「CHA-CHA」というアイドルグループで活動していたんですが、当時はアイドルって4、5年で解散するのが当たり前でしたから、自分もそのうちいなくなるんだろうなと思っていたんです。やがて、「あの人は今」みたいな番組で背中越しに紹介されて、「かっちゃ〜ん!」って呼ばれて振り向いたら、当時の面影はみじんもなく、誰だかわからない…みたいな(笑)。そんなふうになるんだろうな、って。

 

勝俣州和
萩本欽一さんのYouTube『欽ちゃん80歳の挑戦』に毎週参加していた

だからこそ、せっかく欽ちゃんのそばにいられるうちは、できるだけ多くのことを吸収したかったんです。お笑いのことだけじゃなく、人としての生き方を学びたかったんです。欽ちゃんのほうは、そんなふうに話しかけてくる人があんまりいなかったから、逆におもしろがってくれていたみたいですけど(笑)。