父が胃がんと認知症を発症。介護生活のスタート

── そんなお父さんが胃がんで倒れ、のちに認知症も発症。アメリカにいた斉藤さんは日本に帰国することになったそうですね。
斉藤さん:はい。私は渡米して大学で学び、その後、96年にアメリカ人男性と結婚。この先もアメリカで生活するという思いでいたのですが、父が胃がんになり、その数年後には認知症になりました。50代の母にとって、70代の父の介護はすごく大変だったようで、体力的にも精神的にも毎日が戦い。支えていた母も倒れてしまったので「戻らないとな」と、看病するため帰国しました。日本へたびたび帰国するなかで、考え方の違いなどからアメリカ人の夫とちょうど離婚したのもこのころです。
私は父が41歳のときの子でしたから同級生の親より年齢が高かったので、介護が早くやってきて。本当は離婚後もアメリカに残って生活したかったけど両親が心配で本帰国。自分がやりたいことができなかった時期でした。
── 認知症のお父さんとの生活はどんなものだったのでしょうか。
斉藤さん:認知症と言っても父の場合は、めったに会わない身内だったら気づかないレベルだったんです。でも一緒に住んだらわかるトラブルが多々ありました。普通に見えるからこそやっかいで、徘徊しても保護されない。でも本人は出先でなぜ今そこにいるのかわからなくなる。父は仕事で会議があるからと背広を着て出かけたものの、着いた駅で「今、何をしてるかわからなくなった」と。JR神田駅から「お父さんを保護しているのですが」と電話が来たこともありました。
当時、そのレベルでは認知症の認定がなかなかもらえなくて。支援はありませんでしたし、家族がみるしかない時代だったんですよね。私が仕事に行っている最中に呼び出されたこともありました。なので、母とタッグを組んで10年くらい介護しました。同じころ、妹の調子が悪くなり、姪と甥のめんどうも見ないといけなかったりして。手がどうしてもたりず、子どもたちを仕事場に連れて行ったこともありました。本当にいろんな人の世話をしていましたね。
── 最期までお父さんのお世話をなさってひとつの区切りがあったかと思います。どのようなお気持ちでしたか?
斉藤さん:晩年の父は入院して胃ろうで食べれなかったし、しゃべれませんでした。入院していてもつき添わないといけない病院だったので、毎日病院に通っていました。いつどうなるかわからない不安のなかで過ごした2年でした。朝、病院から「危篤です」と連絡が来て病院に駆けつけたけど、最期には立ち会えませんでした。ただ、急に亡くなったわけではないので、覚悟はしていました。
父が亡くなり悲しいというより、私と母はちょっと気持ちが解放されました。父も苦しさからやっと解放された気がして、そういう安心感、解放感ですね。私はお葬式が終わるまでは気が張って悲しむ余裕はありませんでしたが、忙しさで救われたところもありました。父が80歳まで生きられたことにも感謝という思いです。
── 斉藤さんにとってお父さんはどんな存在でしたか?
斉藤さん:いい悪いとかじゃなく、いち例として「不倫してもちゃんと生きていく人っているんだな」っていう、ある意味、大人の人生観みたいなものも父を見て学びました。いろいろありましたけど、最後は娘と父という関係をまっとうしてくれたなと。父には感謝ですね。