福島・富岡第一中学校の2年時、元バドミントン選手の大堀彩さんは部活でストレッチをしている最中に東日本大震災で被災。その記憶は今も鮮明に記憶していると言います。成績が伴わず引退を何度も考えたことがあった現役時代。そんなときに彼女を支えたのは、共に苦難を乗り越えた仲間の存在、そして故郷・福島への思いでした。(全2回中の2回)

東京五輪を逃し、よぎった「引退」の文字

── 震災直後に福島からお母さんのご実家のある大阪へ避難した当時は特に、精神的にバドミントンどころではなかったそうですね。福島に戻れないのなら、もうバドミントンはやらないと思っていた大堀さんが、それでも再びバドミントンと向き合えることができたのはなぜだったと思いますか?

 

大堀さん:当災前まではバドミントンという競技と真剣に向き合っていなかったような気がするんです。ただ震災を経て、あんなに怖いことを乗り越えられたのだから、どんな試練にも耐えられる、と精神的にすごく成長したなと感じます。故郷の皆さんのため、応援してくださる方々のためにも結果を残したいと強く思うようになったのも震災後からでした。

 

富岡高のサテライト校が福島・猪苗代町に設置され、私が通っていた富岡第一中もそこで練習できるようになりました。学校が再開した夏、中3の全国中学体育大会で団体、個人ともに優勝することができたんです。そのときに周りの方が喜んでくださる姿を見て、「もっともっと大きな舞台で勝って、みんなが喜んでくれる姿が見たい」って。もちろん、二度とあのような震災は起きてほしくないけれど、起きてしまった以上は少しでもポジティブに捉えるしかないと考えるようになっていました。

 

中学時代は3年時の夏の全国中学校体育大会で団体、個人ともに優勝

── そういった意味では昨年のパリ五輪では故郷への思いや恩返しという気持ちは大きなものだったと思います。目標だった東京五輪出場を逃し、成績が伴わず引退を考えたこともあったと伺いました。大堀さんが葛藤を乗り越え、頑張れたのはなぜでしょう。

 

大堀さん:やはり震災を経験したことが大きいですね。もちろん、シンプルにプレーでうまくいかず悔しかったから踏ん張れたという面もありますが、自分は何のために目標を諦めずにバドミントンを続けているのかと根本に立ち戻ったとき、最初に思い浮かんだのが、故郷・福島県の存在でした。あの震災がなければ、これほど強く故郷に対して思いを抱くことはなかった。震災のときに私の背中を押してくれた方々、テレビなどを通してバドミントンを見てくださる方々に少しでも希望や元気を与えられるように。間違いなくそんな思いがあったからですね。

 

── パリ五輪代表が決まったとき、そしてパリ五輪の後、福島の方々も喜ばれたと思います。

 

大堀さん:オリンピックに出場することが決まって壮行会などで何度か福島に戻ったんですが、「後悔がないように思いきってプレーしてきてね」と皆さんが励ましてくださいました。何よりも、私自身が納得のいくようなプレーをしてほしい、と。私の中では、「納得すること=皆さんが喜んでくれること」と思いながら、後悔しないよう大舞台に挑みました。