パリ五輪バドミントン女子シングルスでベスト8入りし、昨年末で現役生活に幕を閉じた大堀彩さん。福島県出身の大堀さんは地元のバドミントン強豪校に通っていた中学2年時に東日本大震災で被災し、原発事故に伴う避難生活で、競技継続を一度は諦めかけたと言います。(全2回中の1回)

空の色が急に黒くなってきて

── 大堀さんは福島県の出身で2011年の東日本大震災当時はバドミントンの強豪校・富岡中学校の2年生でした。地震が起こったときはどこにいらしたんですか?

 

大堀さん:ちょうどその日は先輩たちの卒業式が終わって、早く部活が始まったんです。体育館でチームメイトたちと円になってストレッチをしているときに突然、揺れ始めて。学校があった地域はもとも地震が多いところで多少の免疫はあったんですが、震度6強の強い揺れは初めての経験でした。体育館のライトは今にも落ちて来そうな勢いでしたし、外に出てみると体育館と隣の建物が大きな揺れでぶつかり合ってバーンという音もしていて。本当に怖かったですね。

 

── すぐに避難されたんですか?

 

大堀さん:「逃げないとまずい」と直感的に思いました。先生の指示があって、みんな無我夢中で走って校庭に避難しました。逃げながら地面を見ると、地割れをしているところがありましたね。足下は安定せず、パニックになっていたこともあって、校庭につくまでには何度も転んでしまいました。しかも外に出たら空の色が急に黒くなってきて、ひょうが降り始めてきたんです。まだ3月だったのですごく寒かったのを覚えています。練習中でみんな半袖短パン姿だったので、凍えながら揺れがおさまるのを待っていました。私を含め、チームメイトのほとんどが恐怖や不安から泣いていましたね。でも、自宅にひとりでいるときじゃなくてよかったです。もしひとりだったらきっと、どうしていいかわからず戸惑っていたと思いますから。

 

中学2年時の終わりに起こった東日本大震災後はしばらくの間、避難先の大阪でバドミントンを続けた

── その後、自宅に戻ることはできたのでしょうか。それともそのまま避難所に向かったんですか?

 

大堀さん:自宅が高台にあり、津波の心配がなかったのでいったん帰りました。だけど、その後も余震がおさまらなかったので自宅にいるのは危ないということになり、避難することに。学校には多くの町民の方々が避難されていました。夜には姉と一緒に支援物資や水が入ったダンボールを抱え、老人の方や小さな子どもに配ったりしていました。その夜は校庭に駐車した車の中で家族と一緒に一夜過ごしました。

 

── 避難所での生活はその後も長く続いたのでしょうか。学校が所在する福島県富岡町は福島第一原発から約10kmと近く、警戒区域にも指定されましたよね。

 

大堀さん:震災翌日に原発が危ないので避難してくださいという町内アナウンスがあったので、隣の川内村に避難することになったんです。自宅の冷蔵庫にあった食料をすべて袋に入れて車で出発。普段は富岡町から20、30分で到着できるのに、みんな一斉に移動したので5時間ぐらいかかりました。その日の夜に原発の事故があって、祖父母の家がある栃木に行き、そこで1週間ほど過ごすことに。その後は5月に福島に戻るまでは、母の実家がある大阪に滞在していました。