コーチから「無謀だ」と言われた走り幅跳びへの挑戦

決意を新たにしたものの、短距離走では世界のトップレベルとの差が少しずつ広がり、限界を感じ始めていました。

 

そこで考えたのが、出場の可能性がありそうな走り幅跳びへの種目変更でした。ところが、大森コーチは「無謀だ」と大反対。

 

「大森さん自身は400mの選手だったので、走り幅跳びは未経験。私もうっすらと目が見えていた子どものころでさえ、走り幅跳びを見たことがなかったんです。

 

それでも、どうしてもパラリンピックに出場したいと何度も説得して、ようやく了承を得ました」

 

100m走はコーラーとともに走り抜く

大森コーチも走り幅跳びを教えたことがないため、他の小学生を教えるコーチにアドバイスを受けるなど試行錯誤。

 

最初は数歩走ってぴょんと砂場に飛ぶところからのスタートでした。目が見えないなかでジャンプするのは思った以上に恐怖心があったそうです。

 

それでも、少しずつスピードを上げながら飛べるように。努力のかいがあって、ついに2016年、悲願のリオパラリンピック出場の切符を手にします。

 

「代表になるまで10年かかりました。決まったときは、泣くほどうれしかったです。

 

パラリンピック・リオ大会では走り幅跳び日本初の8位入賞。自己ベスト、日本記録を更新しました。

 

大きな大会で自分の持っている力を出しきれることはなかなかないので、充実感はありました。

 

でもやっぱり、メダルを取った人とは注目度が違うんですよね。次こそは表彰台のうえに立ちたいと強く思いました」