視界がない中で跳躍する高田さんの驚くべき1枚

練習では絶好調、これなら本番でも!」期待に胸弾んだ東京パラリンピック大会は、悔いの残る結果になった盲目の陸上競技選手・高田千明さん。取り組む競技を変更までして、家族に支えられながら、メダルへ—— 。“前しか見ない”彼女のパワフルストーリーに迫ります(全3回中の3回)。

2度のパラリンピック代表落ち「夫の言葉ではい上がれた」

2006年、社会人になって本格的に陸上競技を始め、短距離走でのパラリンピック出場を目指した高田さん。

 

元オリンピック選手・大森盛一コーチとともに練習に励みますが、残念ながら2008年の北京パラリンピックは、出場権を得られませんでした。

 

その年、23歳で出産。育児と両立しながら練習を続けたものの、2012年のロンドン大会も手が届きません。

 

「コーラー」と呼ばれるガイド役の音による距離感や方向を頼りに練習に励む高田さん

「やっぱり子育てしながらパラリンピックを目指すのは並たいていではありませんでした。

 

息子は4歳になり、母に預けて私が練習に行こうとすると“ママ、行かないで”と泣かれることもあって…。子どものためにもっと時間を使うべきかと、一時は引退も考えました。

 

夫に相談すると、“決断するのは千明だから、気持ちは尊重するよ。でも何年か経って、いまのライバルたちが現役で活躍しているのを見たら、続けなかったことを後悔するかもしれないよ”と言われました。

 

その言葉にハッとしましたね。“私はどうしてもパラリンピックに出場したいんだ”と気づいたんです」

 

家族の支えをもとにパラリンピック出場を目指した高田さん

高田さんが最初にパラリンピックを目指し始めたのは「代表になって海外に行きたい」という軽い気持ちからでした。

 

それが次第にたくさんの人からのサポートを受け、応援してもらう存在に。周囲の思いに応えるためにも、中途半端なことはできないと考えるようになったのです。

 

「それに、“子どものために競技を辞める”って、言い訳にしているみたいだなと思ったんですよね。

 

もし子どもが将来、“自分のために母親が夢をあきらめた”と負い目に感じたら申し訳ない。目標に向かって頑張る姿を見せようと。必ずパラリンピックに出場すると決意しました」