タレントの新山千春さんが、シングルマザー時代に直面した母の乳がん闘病を公表しました。10年を経て寛解を迎えた今も、母の足元には「熱い砂利を歩くような」焼ける痛みが残るといいます。痛みを少しでもやわらげようと厚みのあるクッションがある靴を探す新山さん。笑顔の裏で支え合ってきた親子の知られざる10年の歩みを聞きました。

 芸能活動を支えた母と「津軽弁で話せる時間」

── 14歳でホリプロタレントスカウトキャラバンの審査員特別賞を受賞し、青森から上京しました。親元を離れ寂しい思いをしていたかと思いますが、当時支えになってくれていた人はいましたか。

 

新山さん:母がいなかったらこの仕事を続けられなかったと思います。上京してホリプロの寮に住んでいたんですけど、東京に誰も友達がいなくて。大人の環境に入るのも初めてでしたし、慣れない標準語でのセリフも大変で。今のようにLINEで気軽に連絡が取れる時代ではなかったので、撮影でうまくいかないことがあるたびに、部屋の固定電話やPHSから母に連絡をしていました。

 

新山千春さん
「衣装もキマってます」ふるさと・青森のねぶた祭りに参加する新山千春さん

── 娘が東京で仕事を始めて親御さんにも不安な気持ちはあったと思います。悩みを打ち明けた際に、お母さんはどんな反応をしていましたか。

 

新山さん:母は口出しするタイプではないので、私に寄り添って話を聞いては「それはたんだでね(それはつらかったね)」と私を安心させてくれていました。1日の終わりに津軽弁で母と話すと、「もっと肩の力を抜いてもいいんだ」と思えて。明日への原動力になっていたと思います。

 

今年20歳になり、ダンサーとして活動している娘のもあも、私に似ているところがあると感じるのですが、当時は「早く自立しなきゃ」と思っていて。現場で絶対に弱音は吐かないようにしていました。

愛犬のチワワで母に乳がんが発覚し

── お母さんに支えられて芸能活動を続けていましたが、娘のもあさんが8歳の頃に離婚し、シングルマザーとして子育てをしながら働いていた時期がありました。仕事の際は、お母さんが青森から来て育児を手伝ってくれていたそうですね。

 

新山さん:娘が小学生のころ、母に助けてもらって生活をしていました。シングルマザーでお金の余裕がないので、とにかく必死に働いて。シッターさんを頼むのもお金がかかりますし、時間が読めない仕事なので、母にお願いできる環境があったのはありがたかったです。

 

── 以前、もあさんにインタビューさせていただいた際に「青森のおばあちゃんと工作をして遊んだことが思い出に残っている」と話してくれました。手先が器用なお母さんだそうですね。

 

新山さん:母は、編み物や裁縫が得意で。今も工夫していろんなものを作っているのですが、母が娘と一緒に工作遊びをしていたことは意外でした。私が小さいころは、父も母も仕事が忙しく、母は仕事を掛け持ちして家計を支えて。学校から帰ってきたら祖母と過ごしていましたし、母と一緒にいられるのは日曜だけで、忙しさのあまり、ゆっくり母と一緒に遊んだ記憶はあまりないんです。

 

娘と一緒に遊ぶ母の姿を見て、「もしかしたら、自分の子どもにできなかったことを、孫の成長を見ながらしていたのかな」と思っていました。母に娘をみてもらって助かりましたし、母の楽しそうな姿を見るのも嬉しかったです。

 

── もあさんが10歳のときにお母さんの乳がんが発覚したことを、先日『徹子の部屋』で公表しました。育児と仕事に加えてお母さんの病がわかり、心配ごとが増えた時期だったと思います。

 

新山さん:母が61歳のときでした。特に調子が悪いということもなかったのですが、当時うちで飼っていたチワワがポンッと母の胸にジャンプしたときの痛みに違和感があったみたいで。チワワは2キロくらいで軽いんですけど、「痛いっ!」と。その場に私もいたので、心配になって病院を受診することにしたんです。検査の結果、乳がんと診断され、すでに脇のリンパに転移していることがわかりました。医師からは手術と抗がん剤治療がすぐに必要だと言われました。

 

突然の展開に「まさかうちの母が」と信じられない気持ちでいっぱいで。シングルマザーでお金も稼がなきゃならないのに、「どうしよう」と一瞬思考が止まってしまって。いちばんつらいのはもちろん母ですが、こんなに近くにいたのに、気づいてあげられなかったたこともショックで。「この先の仕事や治療はどうしたらいんだろう」という不安が一気に押し寄せました。

 

── 普段、おばあちゃんと一緒に過ごしていたもあさんに、病気のことは伝えたのですか。

 

新山さん:黙っていることはできないと思いましたし、伝えたらわかると思ったのですべて話しました。「私が泣いちゃダメだ」と、涙を堪えながら伝えたのを覚えています。10歳だったもあもしっかり受け止めてくれて、「わかった。ママも頑張ってね」と私の心配もしてくれました。子どもながらに状況を察して、そのころ私に負担がかかるようなことはしなかったですね。「娘のことも、母のことも守らなきゃ」という思いでした。