出産した3人の子は、難病を抱えた重症児だった──。「真っ暗なトンネルに迷い込むってこういう感じなんだ」と当時を振り返る紺野昌代さん。看護師として働きながら、子どもたちのケアに全力を捧げる毎日。周囲の心無い言葉、自分を責めたときもありながら、それでも「精一杯わが子を愛した」、家族の記録。
真っ暗なトンネルに迷い込んだ感じ

── 紺野さんは出産した3人のお子さんが全員重度障害児で、懸命にケアを続けたものの、3人とも亡くなっていると伺っています。まず長男・聖矢さんを出産したときの状況について教えていただけますか。
紺野さん:23歳のときに助産院で出産しましたが、泣き声がほとんど聞こえないくらい、弱々しくて。筋緊張が低下し、身体がダランとしていて、すぐにNICUのある病院へ運ばれました。NICUではいろいろな検査をしてもらいましたが、確定診断には至りませんでした。
── かなり大変な状況だったかと思います。
紺野さん:「真っ暗なトンネルに迷い込むってこういう感じなんだ」って思いました。助産院だったので本来は母子同室で過ごすはずが、私はすぐに子どもと引き離されてしまい、周りの赤ちゃんの泣き声や家族の笑っている声にさえ、苦しみを感じてしまいました。
聖矢はNICUに入ってから1か月後に退院し、小児専門病院で新たに検査をしましたが、そこでも同じく確定診断がつかず。先天性代謝異常症の医療的ケア児として育児が始まりました。
── 聖矢くんが生まれた2000年当時は、医療や福祉のサービス環境が整っていない時代だったそうですね。
紺野さん:そうなんです。今なら病院に医療ソーシャルワーカーがいて退院後の相談をするとか、地域関連機関と連携してサービス等の調整をする相談支援専門員がいますが、当時はそうした環境が整っておらず、この先どうしたらいいのかまったくわかりませんでした。
産後、しばらくして義理の両親と同居することになって、義理の母が一緒にお世話をしてくれるようになりましたが、ミルクが飲めず、鼻から入れたチューブで注入しても吐いてしまう。体重が増えず、お腹が空くし、呼吸も苦しく、昼夜問わず、常に泣き叫んでいる状態でした。疲労困憊している私を見かねて、義理の母が職場復帰を促してくれました。
復帰後は、通勤の時間は1人の時間を確保でき、職場でも1人の人になれたことは大きかったと思います。