家事に家計のやりくり…大学受験は全部落ちた
── お父さんは家事をいっさいしなかったそうですね。
町さん:時代もあったと思いますが、家のことは何も。お湯を沸かすことすらしない父でした。高圧的な言い方をする父と私はケンカばかり。でも、そんな父も、母のことを思う気持ちだけは強かったんです。容態が急変し母が人工呼吸器に繋がれていたときは、寝袋を持って病院の待合室に泊まって。仕事が終われば母の病室に通う生活を毎日続けていました。
── お母さんが入院したのは、高3の大学受験を控えていた時期だったと。
町さん:母の代わりにやることがありすぎて、その年は受験に集中できず全部落ちました。家事に加えて家計のやりくりに、家賃や光熱費の支払い、役所で母の医療費の手続き。裕福な家庭ではなかったので、高額な医療費に目が飛び出そうでした。きょうだいの学校の面談にも行き、卒業式や入学式にも出て、生活にかかわることすべて私がしました。
父から、「どうしても大学に行ってほしい」と言われていたので、浪人して勉強は続けました。母は予断の許さない状況が続き、脳梗塞を併発して心肺停止になったことも一度あったのですが、なんとか一命を取り留めました。手術前に医師からは告げられていましたが、右半身の麻痺と言語障害という重い後遺症が残って。当時の母はまだ40歳。容態が安定してからリハビリが始まり、入院から1年1か月後に退院して家に帰ってきました。
車椅子の母の退院も「手放しでは喜べない」本音
── お母さんが帰ってきたあとの生活はいかがでしたか。
町さん:母が退院したのは翌年の受験の真っただ中でした。一度は死も覚悟した母が生きていてくれたことは何にも変え難いほど嬉しかったのですが、家に帰ってくることは正直、手放しでは喜べませんでした。子ども3人での暮らしに慣れてきたなかに、車椅子で言葉を話すことが難しくなった母が帰ってくる。母専用に塩分を抑えた食事が必要ですし、バリアフリーの病院とは違って、段差だらけの家での生活に慣れてもらわなくてはならず、それと並行して受験勉強もあります。
複雑な気持ちでいる私とは違って、「お母さん良かったね!」と妹はものすごく喜んでいて。その姿を見て「そうだよね」と反省しました。寂しい思いをしていたのは私たちだけではなく、母も同じ。入院する前の元気な頃の母とは変わってしまいましたけど、家に帰って来られたことを喜ばなきゃ。置かれた状況の中で、できることをやっていこうと思いました。