介護する家族が頑張りすぎることで奪う「可能性」

── 努力が実って無事に大学に合格したそうですが、学生生活はお母さんの介護と共にスタートしたそうですね。

 

町さん:介護というと、まるで私たちがすべての世話をしていたように聞こえますが、実際はそうではありません。母は右半身が動かせませんが、それならば麻痺のない左手でできる家事は何でもやってもらおうと考えました。

 

火を使うような料理をするのは難しかったのですが、パンを焼くなどの簡単な朝食は用意できましたし、車椅子で掃除機をかけ、お皿洗いは私が洗うとカチカチの米粒が残っていたのに母が洗うとツルツル。左手で畳む洗濯物も、「どうやったら片手でこんなに綺麗にできるの」というくらいでした。家事のやり方が体に染み付いていたんだと思います。時間はどうしてもかかりますが、母も家族の役に立ちたいという思いがあったと思います。

 

── 長年の母業の成果ですね。きっとお母さんも、なるべくこれまでのようにしたかったんでしょうね。

 

町さん:ヤングケアラーに限らず、大人のケアラーも同じなのですが、介護をする家族が頑張りすぎてしまうと、本当はできることがあるのに、その可能性を本人から奪うことになってしまいます。障がいがあっても、「お母さんは、元気だった頃のようにはできない」と思い込むのではなく、ひとつでもできることを増やしていきました。

 

当時はまだヤングケアラーという言葉はなかったので、家のことをするのも、母の世話も介護と思っていたわけではなく、家族で協力するのが当然だと思っていました。それゆえ、相談もできなかったんですけどね。誰かをお手本にしていたわけではないのですが、当時の私は、母に少しでも家事をしてもらえたら自分が助かるという思いでした。でもこれが、のちに母の自立支援に繋がっていたことを知りました。

医療や介護の取材を続ける理由

── 自宅に戻ってから8年後にお母さんが子宮頸がんと診断されます。しかも、すでに骨盤やリンパに転移していて手術ができない状況で、49歳で亡くなられたと伺いました。

 

町さん:ある日、大出血をした母を病院に連れて行ったところ「なんでこんなになるまで放っておいたの」と先生から言われてしまいました。かなり進行した子宮頸がんで余命は半年と告げられました。当時まだ在宅医療は普及していませんでしたが、唯一母が自由に過ごせた我が家で看取りたいと思いました。

 

たまたま近所に訪問診療をしてくれる緩和治療科を立ち上げた病院があり、母は最期の1か月半を家で過ごすことができました。「親孝行したいときに親はなし」と言われるなかで、その時間は決して長くはありませんでしたが、母の命の灯を家族で見守りながら、濃密な時間を過ごせたことはよかったと思っています。

 

「障がいがある方の生きづらさを伝えたい」と就職の自己PRで話し、アナウンサーになりましたが、母はどんな状況に置かれても、家族の前で涙を流すことはなく自分の運命を受け入れていました。でも、言葉が不自由になった母がどのような思いでいたのか聞くことはできなくて。私が医療や介護現場の取材を続けているのは、「もしかしたら母もこういう気持ちだったのかな」と、様々な当事者の方の話を聴くことで、母の気持ちの答え合わせをしているような感覚があります。

 

── 国や自治体などの調査では、クラスに1〜2人の割合でヤングケアラーが存在しているそうで、実態はそれ以上とも言われています。学校でヤングケアラーの経験を話してほしいという依頼も多いと伺いました。

 

町さん:早く大人にならざるを得なかった当時の私の経験は、大変ではあったものの決して無駄ではなかったと思っています。ですが、家族のことを考えて自分のことを後回しにしているヤングケアラーは少なくありません。私もそうでしたが、本当は誰かに話を聴いてほしいと思っていても、簡単に人を頼ることもできません。1人で抱えずに誰かを頼っていいということを伝えたいですし、気にかけてくれる大人が誰かいるだけで救われることがあります。1人でも多くの人に関心を持ってもらえたらと思いますし、必要な支援が必要なタイミングで届くように、これからも発信を続けていきたいです。

 

取材・文:内橋明日香 写真:町亞聖