「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」。最愛の夫を亡くし、自身も大動脈解離の後遺症で車椅子生活となった岸田ひろ実さん。生きる気力を失い、暗闇の中で「死」を願った彼女を救ったのは、娘・奈美さんが放った、あまりに意外なひと言でした。「死にたい」という願いさえ包み込んでくれた娘の愛。絶望の底で、ひろ実さんが再び「生きたい」と思えるようになるまでの、静かな再生の記録。
「助かる確率2割」手術の同意書は高2の娘に託され

── 長女の奈美さんが中学2年生、長男の良太さんが小学4年生のときに、一家の大黒柱である夫の浩二さんが急逝されました。その後、シングルマザーになられて、大変なこともあったのではないですか。
岸田さん:結婚してから15年以上専業主婦をしていたので、自分に仕事ができるか不安でした。何の資格もないし、結婚前に勤めていた会社も1年半で辞めてしまいましたし。最初の仕事は、石材店のテレアポのアルバイトです。「ノルマがないし、座ったままできるよ」とママ友に誘ってもらいました。
電話帳の上から順に電話をかけて「お墓の案内を送らせてください」と言うと、「縁起でもない電話してくるな!」とたいていは怒られるんですけど、私は意外と「いいですよ」と言ってもらえたんです。一緒に働いている先輩たちから「やるやん!まだ若いんやから、もっと人前に出る仕事したらいいのに」と言ってもらえて自信がつきました。
当時の私は37歳くらい。「接客の仕事をしてみようかな」と思っていたところに、近所に整骨院がオープンして受付を募集していたんです。
整骨院に来られる患者さんは女性の方が多くて、おしゃべりの合間にいろいろな相談をされました。もともと私は健康オタクだったので、体にいい食材のアドバイスをするうちに、「勉強して、もっと役に立ちたい」と思うようになって。
院長にも「資格を取ったら」と勧められて、福岡にある自然形体療法の学校に通うことにしたんです。1か月に1回、泊まりがけで通って整体を学んで資格を取りました。
整骨院の仕事も勉強も楽しくて、忙しかったけれど充実していました。家事も完璧にやりたいタイプなので、睡眠時間を削ってしまっていました。楽しいことって無理ができてしまうんですよね。それがたたって、倒れてしまったんです。
── 倒れる前に、何か兆候はなかったのですか。
岸田さん:いえ、つねに寝不足ではありましたが、元気でした。その日は、午前の診療を終えてから一度家に帰ってお昼寝をして、夜、職場の新年会へ出かける予定だったんです。起きて、洗面所に立ったら胸のあたりに「バーン!」と衝撃があって。そのときは、痛みもなくて「肉離れかな」と思ったくらい。でも、立っていられないし、何かがおかしい。子どもたちが家にいたので、救急車を呼んでもらいました。
病院で検査をしたら、心臓の太い血管が破裂して剥がれる大動脈解離で、1分1秒を争うと言われました。手術のために別の病院へ移ることになりましたが、救急車の中で死亡する可能性が高いからと、未成年だった長女の奈美は救急車に同乗できなかったんです。代わりに、駆けつけてくれた私の母に乗ってもらいました。
病院に着いて手術の準備をしている間に、私は意識を失いました。
あとで聞いた話なのですが、家族は先生から「手術をしても命が助かる確率は2割あるかないか」という説明を受けたそうです。手術の同意書を書いてくれたのは、当時高校2年生だった奈美でした。
中学2年生のときにケンカをしたまま父親を突然亡くして、奈美はずっと後悔していました。それなのに、今度は母親を失うかもしれないというのは、あまりにも酷だったと思います。