30代から教育現場で働いてきた立石美津子さんは、38歳で母となったときも、子育てに明確な理想を抱いていました。しかし、子どもが発達障害であることがわかったことで、その理想は揺らぎ、諦めへと変化。その後の葛藤の日々が、立石さんにこれまでとは異なる生き方を与えてくれました。

「考えすぎであってほしい」違和感から目を背け

立石美津子
特別支援学校で教育実習中の立石さん

── 立石さんは、38歳のときに第1子を出産しました。大学時代には幼児教育を学び、卒業後、保育園や幼稚園の課外教室を展開する仕事に関わってきた立石さんですが、当時、どのような子育てを思い描いていましたか?

 

立石さん:優秀な子に育って、有名大学を目指してほしいという理想を強く持っていました。私自身、幼少期から母に厳しく育てられて、「テストは100点以外認めない」という環境だったため、無意識のうちに自分の子にも「高い学力」を求めていたのかもしれません。息子の光汰朗には、赤ちゃんのころから絵本をたくさん読み聞かせたり、クラシック音楽を聞かせるなど、たくさんの刺激を与え、よりよい教育環境を整えようと意識していました。

 

── 光汰朗さんの発達について、最初に違和感を覚えたのはいつごろだったのでしょうか。

 

立石さん:光汰朗が1歳になるころ、「ほかの子と何か違うな」と感じ始めました。手を振って「バイバイ」をすることが少ないし、誰かが笑いかけてくれてもほぼ無反応。顔を近づけてみても、目が合いにくく、誰もいないような反応をするんです。

 

2歳になって保育園にいれたら、ますます違和感を感じて。同じクラスの子たちはおしゃべりができているのに、光汰朗は言葉がまったく出ず、集団行動もできない…。「手を叩きましょう」と先生がうながしても、息子だけ何もしないで座っている状態でした。

 

ただ、その違和感をすぐに受け止められたかというと、そうではありませんでした。ときどき目が合うときもあったし、笑うこともあったので「考えすぎかもしれない」と。しかしあるとき、アレルギーの治療で大きな病院を受診した際、「2歳になったが言葉が出ない」と何気なく相談したら、精神科への受診を勧められました。そこで息子の様子を見た先生が、「間違いなく自閉スペクトラム症(自閉症)でしょう」と告げたのです。

 

── 診断を受けたとき、どんなお気持ちでしたか。

 

立石さん:とてもショックでした。「そんなはずはない」と診断を受け止められず、ひどく落ち込む期間が続きました。さらに、3歳のときの知能検査では「IQ37」の結果で、知的にも遅れがあることがわかり、心がますます引きこもり状態に。これまで関わってきた保育園のお母さんたちとも、「話したくない」と避けるようになっていきました。

 

── 気持ちを前向きに切り替えられたのはいつごろでしたか? 

 

立石さん:前を向けるようになったのは、光汰朗が7歳になったころでした。障害のある子に対しての支援と教育を行う、特別支援学校に入学したことがきっかけだったと感じています。

 

保育園では、定型発達の子に囲まれていましたが、特別支援学校では、先生も保護者もみんな「障害がある」ことを前提に話をしてくれる。そうしたら、すごく気持ちが楽になって…。これまでは「ほかの子ができることが、なぜできないのだろう」と考えてきましたが、環境が変わったことで「障害があるのだから、できないものは仕方ない」と前向きに諦められるようになり、光汰朗の障害についても向き合えるようになっていきました。