19歳年下、銀座のママとしてはぶりのよかった時代から焼肉屋の事業の行き詰まりや洋菓子店「マダムシンコ」の運営などいくつも試練を乗り越えてきた2人。仕事に精を出すなか、子どもについてもそれぞれの思いがあったといいます。 

19歳年下の夫と結婚も「色ボケだ」と言われ

マダム信子
19歳年下の夫と結婚して20数年になるマダム信子さん

── ショッキングピンクとヒョウ柄のパッケージで知られるバウムクーヘン「マダムブリュレ」の生みの親、マダム信子さん。その波乱万丈な歩みを約30年にわたって支えてきたのが、19歳年下の夫・幸治さんの存在です。おふたりの出会いは、信子さんが銀座のクラブでママをしていたころだったそうですね。

 

マダム信子さん:私が40代半ばで、銀座でオーナーママとして店を切り盛りしていたころです。ボーイのバイトの面接に来たのが、当時24歳の彼でした。俳優やモデルを目指して上京してきたものの、仕事になかなか恵まれず、青白い顔をした、まだあどけなさの残る青年でした。

 

体はやせていて、なんだか気の毒になり、「これでご飯でも食べなさい」と1万円を渡したんです。驚いたのは翌日です。「昨日はありがとうございました」って、領収書とお釣りを、1円単位まできっちり持って返しに来たんです。その律儀さに驚いて、「嘘のつけない真面目な子だな」と感じました。「この子は信用できる」と直感し、雇うことにしたんです。

 

当初は19歳も年下なので、恋愛対象としては見ていませんでしたが、一緒に過ごすうちに、その心根の優しさと誠実さに惹かれ、「この人と一生を共にしたい」と感じるようになっていきました。出会いから数年後、「事故にあったと思ってください…」とプロポーズされたんです。年齢差への偏見もあって、「色ボケだ」「財産目当てだ」なんていろいろ陰口も言われましたね。

 

出会いから約30年、いいときもどん底の時期も、いつもそばにいてくれました。 苦しい局面を一緒に乗り越えるたびに、絆が深くなっていくのを感じます。

 

── 47歳のときには水商売を引退し、大阪に戻って2人で焼肉店を始められています。どんな思いがあったのでしょう。

 

マダム信子さん:彼との将来を考えて、というのも要因のひとつでした。いつまでも夜の世界の仕事をするというわけにはいかないだろうし、彼の世間体も考え、「地に足のついた商売を一緒にやっていこう」と決めました。彼は焼肉屋の仕事と並行してモデルをしたり、オーディションを受けに行ったりもしていました。でも、なかなか思うような仕事にはつながらない。モデルへの未練を断ち切れない彼に「焼肉屋で頑張って、チェーン店を出すくらいになろう」と励ましていましたね。

 

── その後、狂牛病騒動が直撃し、焼肉店の経営が一気に傾きます。当時の様子を教えてください。

 

マダム信子さん:本店は200坪もある大きな店でしたが、狂牛病の影響で売り上げがほとんど立たなくなりました。従業員にも辞めてもらうしかなく、残ったのは私たち2人とわずかなスタッフだけ。朝は私がトラックを運転して仕入れに行き、肉をさばいて仕込むのは彼の担当。お客さんが来ないから、2人で店をピカピカに掃除して、「いつお客さんが来てもいいように」と準備だけは整えていました。

 

そんなときも彼は嫌な顔ひとつしないんです。営業が終わって片づけをし、やっとひと息ついたとき、彼がギターを持ち出して『バラが咲いた』を弾き始めて。一緒に歌っているうちに、いろんな感情が込み上げてきて、泣きながら歌い続けた夜もありました。