メープルシロップを染み込ませたバウムクーヘン「マダムブリュレ」で一大ブームを巻き起こした洋菓子店「マダムシンコ」。一時は年商50億円にものぼりましたが、その船出は開業初日から大きく躓いたそうです。

「マダムシンコ」開業初日から激震

マダム信子
子ども時代の貧困から大阪、銀座のクラブママ、焼肉店等次々に事業展開した

── 大ヒットした「マダムブリュレ」の生みの親であるマダム信子さん。銀座のクラブ経営から転身し、焼肉店で成功をおさめたものの、狂牛病騒動などで事業が行き詰まり、多額の借金を抱えることになります。その後、再び立ち上がるために選んだのは「喫茶店」経営でした。これが後の「マダムシンコ」に繋がっていくそうですね。

 

マダム信子さん:当時は世の中の空気が大きく変わってきたと感じていました。飲酒運転の罰則が強化され、「酒を出す商売はもう厳しいのかもしれないな」と思ったんです。そこで、200万円で始められるフランチャイズの和風喫茶を経営することに。わらにもすがる思いでしたね。

 

── 喫茶店での経験を経て、2006年に洋菓子店「マダムシンコ」をオープンされました。しかし、その船出は決して順調とはいかなかったようですね。

 

マダム信子さん:開業初日から激震が走りました。最初は生ケーキ中心で、パティシエを雇って始めたんです。ところが、販売方法をめぐって衝突が起きました。

 

雨が降るなか、並んでくださったお客さまがいたので、私はサービス券を配りながら積極的に声をかけたんです。来ていただけることが本当にありがたかったからです。でも職人の目には、それが「下品なやり方」に映ってしまった。さらに派手なパッケージやブランドの打ち出し方も「洋菓子らしくない」と真っ向から否定されました。

 

価値観の違いが埋まらず、ついには「明日から店は開けない」と開店2日目からボイコットされてしまったんです。残されたのはバウムクーヘンの焼成機だけでした。

 

── 職人が去り、残されたのは焼成機ひとつ。そんな背水の陣ともいえる状況をどう乗り越えていったのですか。

 

マダム信子さん:残った焼成機を前に「これを動かすしかない」と覚悟を決めました。ただ、特定の職人に依存していたら、また同じことが起こるかもしれない。誰が辞めても回る仕組みにしないといけないと痛感しました。そこでバウムクーヘンの機械メーカーさんのところへ出向き、頭を下げて焼き方を教わりました。夫や弟と夜通し練習し、自分たちで商品を作れるようにしたんです。

 

次に立ちはだかったのは、食感の課題です。バウムクーヘンには「喉が詰まる」という定説がありました。冷凍庫に入れてみたり、レンジで温めてみたり、試行錯誤するなかで、幼少期に母が作ってくれたホットケーキの甘いメープルの記憶を思い出して。バウムクーヘンにシロップを染み込ませ、表面を赤砂糖でキャラメリゼするスタイルを編み出したんです。

 

── そうした工夫が、やがてブレイクへとつながっていきます。転機となった出来事はなんだったのでしょうか。

 

マダム信子さん:関西のテレビ番組に出演したときに、「冷凍・冷蔵・常温・レンジ加熱」と4つの食べ方が楽しめますと、紹介したんです。従来の常識をくつがえすその食べ方が、お客さまの心をつかみました。放送直後から注文が殺到し、電話が鳴りっぱなし。1日600〜1000本もの注文が入るようになったんです。