両親はすれ違いの末別居、兄弟は児童養護施設へ
── 言葉が通じないと日常生活自体が困難ですし、就職のハードルも高くなりますよね。お母さんはすごく大変だったと思います。
矢野さん:はい。母は本来、起業家向きの女性なんですよ。父とガーナで営んでいた養鶏場でもリーダーシップを発揮して、地元のスタッフからの信頼が厚ったそうです。日本に移住後も、外国籍の友人が「日本のシャンプーや化粧品が合わない」と困っているのを見て、シャンプーやボディクリームをヨーロッパから輸入・販売する事業を起こすほどパワプルな人で。そんな母でしたが、長年暮らしたガーナとはまったく違う日本の生活習慣に合わせるしかなく、モヤモヤを募らせていったようです。
しかも、サラリーマンになった父は、早朝に出勤して深夜に帰る生活が当たり前になってしまった。ガーナで養鶏場を営んでいたときは、父と母はいつも一緒で、食事も家族みんなでおしゃべりをしながらと、毎日温かな時間が流れていました。それなのに、日本では父がほとんど家にいない状態が続いて。家族中心だったガーナの生活と180度変わってしまい、母はすごく戸惑ったんだと思います。なぜ会社中心の生活をしなければいけないのかと、父の会社に行って上司に説明を求めようとしたこともあったそうで…。
父はそんな母の様子を理解し、何度も話し合いましたが、よいかたちで折り合いをつけることができず、父と母の関係は次第にうまくいかなくなりました。結局、両親は別居をすることになり、僕と兄と弟は、父に引き取られました。父は当時、ハードな仕事をしながら僕ら幼い3人を育てていて、「この状況のなか、ひとりで子どもたちを育てるのは難しい」と悩みぬいた末に、僕たち兄弟を児童養護施設に入所させることにしたようです。ちょうど僕が8歳になったばかりのころだったと思います。
── それはお互いにつらかったでしょうね…。初めての児童養護施設の生活に戸惑うことも多かったのでは。
矢野さん:そうですね。児童養護施設に入所するまで、僕は温室みたいな環境で育っていたと思います。実は日本に移住したあと、まず通ったのはインターナショナルスクールだったんです。その後、1年ほどは父の海外赴任の関係でフィリピンで生活していて、僕たち兄弟はそこで英国系のスクールに通っていました。その結果、日本人の友達はゼロ、日本語はまったく話せないという状態になってしまって。
その状況で児童養護施設に入所したので、最初は言葉の壁でものすごく苦労しました。さすがに日本語がまったく話せないとなると生活に支障が出るため、入所後1年ほどは、先生とマンツーマンで日本語の勉強をしていました。おかげでだいぶ話せるようになり、僕が10歳くらいのときに日本の公立小学校に転校しました。

── 日本語をマスターするまですごく頑張ったんですね。
矢野さん:はい。ただ、別の問題もあって。僕たちが入った児童養護施設には一部の際立って荒れてる子どもたちがいて、当時はケンカが日常茶飯事な施設だったんです。人間関係には本当に苦労しました。
ただ、子どもって適応能力が高いというのか、僕も最初こそ「嫌だな」という気持ちがすごく強かったのですが、だんだんと他の子どもたちのたくましさに慣れていきました。そうして、施設を出るまで10年間、皆とともに暮らしました。