日本の友好都市・西アフリカのガーナに幼稚園と中学校を創設するなど、ガーナの子ども自立支援を行うミュージシャンの矢野デイビットさん。6歳のころに生まれ育ったガーナから日本に移住したそうですが、その理由は「命を守るため」だったそうです。
ガーナで強盗団から襲撃され父の母国・日本に移住
── 矢野デイビットさんのお父さんは日本人で、お母さんはガーナ人だそうですね。もともとお父さんが日本からガーナに仕事の都合で移住されたと伺いました。
矢野さん:はい。父は一級建築士で、日本の大手建築会社に勤務していました。あるとき、かの有名な野口英世とガーナの友好の印となる「野口英世記念医学研究所」をガーナに創ることになったそうで。野口英世は、いまから約100年前、ガーナ共和国だった時代に黄熱病の研究のために日本からガーナに移住し、ガーナの地で生涯を終えています。父もまた、その「野口英世記念医学研究所」の建築の仕事を機にガーナに移り住んだんです。その後、母と出会って結婚し、僕たち3兄弟が生まれました。

── 矢野さんが6歳のころ、今度はご家族でガーナから日本に移住されました。どんな理由からでしょうか。
矢野さん:日本に来る大きなきっかけは、外国人を狙った数十人の盗賊団に襲われたことでした。父は当時、建設会社の仕事の関係であちこち飛び回り、家族との時間が取れないほど忙しかった。ところが僕が大病をしたことで家族のそばにいるために仕事を辞め、養鶏場の自営を始めたんです。その後、現地に住む日本人向けに始めた焼き鳥屋が軌道にのり始めたころ、窃盗団に襲われて。当時、ガーナに住む外国人はお金持ちだと思われていたんです。他の外国人も狙われ、命を奪われた方々もいました。僕ら家族は奇跡的に助かったんですが、またいつ襲われるかわからないからと、父が生まれ育った日本へ避難することになりました。
日本に移住後、父は英語が話せて現場の状況もわかる一級建築士ということで、いろいろ仕事の話をいただいて、まもなく建設会社に再就職しました。ただ、ガーナ人の母は日本語を話せず、日本のことを何も知らない状態で突然、来日することになったので、すごく苦労していました。言語や文化が大きく違うことで日本での暮らしでうまくいかないことが続き、仕事に就くことも難しくて。1日中、家に籠ることもあったようです。