母が6歳のときにいなくなり、児童擁護施設で育った葉月さなさん。中学卒業と同時に、施設を出て働き始めます。そして17歳で出産、その後結婚、離婚を経験。数奇な運命を辿りながら、行き着いた先はプロボクサーの道でした。
母が6歳のときにいなくなり夜の街を探し回った
── 30歳でプロボクサーとしてデビューを果たした葉月さん。幼少期から歩んできた道は波瀾万丈ともいえ、児童養護施設で育ったとうかがいました。
葉月さん:私が6歳のとき、母が家を出て行ったんです。朝起きたら、もう家にいなくて、父が「母が出て行ったから探してくる」と。幼いながらもやはりショックでしたね。父は子どもを育てるため、仕事で早朝から夜遅くまで家にいませんでした。私には2人の弟がいるのですが、姉弟3人だけで家にいるのは危ないということで、近くに住む祖母が毎日夕飯を作りに来てくれている状況でした。
どこかで母を求めて不安を感じて過ごしていた私たちは、ある日、夜遅い時間に真っ暗な中、子ども3人で母を探してまわったことがあって。「お母さん、来ていませんか?」と周囲の家に聞いて回って…。そこで警察に保護されたことがきっかけで、児童養護施設に行くことになりました。
── 真っ暗闇の中、お母さんを探していた幼い子どもの姿…。心が痛みます。施設での生活はどのようなものでしたか。
葉月さん:当時は一刻も早く施設を出たいと思っていました。朝、起きたら「これは夢だった」と安堵している姿を想像したり、明日には家族が迎えに来るという電話が入るんじゃないかとか…。そういう期待というか、妄想ばかりして過ごしていましたね。
というのも、施設内は当時いわゆる「縦社会」のような感じで…。10人くらいの共同部屋で、男性と女性でわかれていました。未就学児から高校生までで、縦割りされているんです。そこでは中高生が絶対的な存在で、当時の私はまだ6〜7歳。怖かったですね。10人で布団を並べて寝るのですが、私を含めた小学生は21時には寝ていないといけなくて、本当に眠っているか、お姉さんたちは布団をめくって確認していました。そこで少しでも目が動いたりすると、ものすごく怒られるんです。ビクビクしながら生活していた、というのが小さいときの記憶ですね。
── ゆっくり眠ることができなかった生活だったんですね。
葉月さん:ただ、そういった「縦社会」は時代の変化もあり、私が中学生くらいにはゆるくなってきました。いまは個室という話も聞きますから。いっぽうで、施設での生活はいい面もあって、食事はぜいたくでした。私は「腹18分目」くらいたっぷり食べられたし、毎食、フルーツも出て。学校にもふつうに通えて、施設に帰れば同世代の遊ぶ友だちもいる。そういう意味で、さみしい思いはしなかったですね。