「40歳で売れなかったら役者を辞める」

── 30代の終わりごろには、「40歳になっても売れなかったら役者を辞める」と決めて役者の仕事に臨んだそうですが、どんな思いがあったのでしょうか。

 

赤間さん:39歳のある日、「無名塾」に入った初日に書いたノートを見つけて。めくってみたら「40歳になっても何者にもなっていなかった場合、潔く役者を辞めること」と書いてあったんです。「20年間、役者を目指しても芽が出ないということは、あなたには才能がないということ。カッコ悪い」って。

 

当時の自分は、いつまでもグダグダ夢にしがみついている人間にはなりたくないって思っていたようです。そのノートを見たとき、39歳の私は「わあ、どうしよう。カッコ悪い自分になっちゃうじゃない」って一気に焦り出しました。じゃあ諦めるかと言われると、どうしても役者を諦められない。最後にもうダメもとで、自分が今いちばん一緒にやりたい監督に直談判しようと思って、原田眞人監督のワークショップに参加したんです。

 

そのとき、7〜8枚くらいのラブレターを書いて、原田監督に渡しました。原田監督が手がけた『KAMIKAZE TAXI』がどんなに好きか、『金融腐蝕列島(呪縛)』がなぜ好きなのか、そういったことを書き綴って。原田監督は「わ、分厚いな!」って驚かれていましたけど(笑)とにかく「一緒に仕事がしたいです」と伝えました。そうすると、原田監督が「ワークショップが終わったらオーディションを受けてもいいよ」と言ってくださって、映画『わが母の記』でデビューすることになりました。

 

赤間麻里子
2015年、「第28回 東京国際映画祭」で原田眞人監督とレッドカーペットを歩く赤間さん