父を裏切らないとだけは決めていた

── ヤマンバといえば、あの奇抜なメイクが特徴的でした。
あぢゃさん:最初は普通のギャルメイクだったんですが、「みんなと同じじゃつまんなくない?」と、どんどん「進化」して出来上がったのが、あのヤマンバスタイルです。肌は「黒い」が正義で、日陰は避けて日光を浴びまくり、日焼けサロンのチラシ配りをして無料で焼かせてもらっていました。メイクは、目の周りを白いサインペンで塗りまくり、つけまつげは瞬間接着剤を使って5枚重ね。とにかく人より目立つことを目指してました。
── サインペンに接着剤…もはやメイクの範疇を超えている気が。
あぢゃさん:取れないことが最優先でしたね。「顔が荒れる」とか「かぶれる」と気にする子もいたけど、うちらは「だったら、もうかぶれてやろうぜ!」みたいなノリで。
── なんだかロックな(笑)。でも、そこまで過激なメイクをして、日常生活で困ることはなかったんですか?
あぢゃさん:ありました。朝、素顔をはじめて見た彼氏が「知らないオヤジがいる」と動揺して、通報されそうになったことも。しばらくぶりに家に戻ったときも、同居している祖母が「あなた誰ですか!?」ってパニックになったこともありました。
── さぞかし驚かれたのでしょうね。それまで家に戻っていなかったんですか?
あぢゃさん:あまり帰ってなかったですね。でも、父にはPHSでまめに連絡を取っていたんです。反抗期で締めつけるとよけいに反発すると父はわかっていたんでしょう。「人に迷惑をかけない」「命に危険が及ぶことはしない」「居場所を親に連絡する」、この3つを守れば何をしてもいいと言ってくれました。私も父を裏切るようなことはしないと決めていました。
── 日々の食費やメイク代は、どうされていたんでしょう。
あぢゃさん:お捻りをいただいたり、メディアの街頭インタビューや雑誌の取材に参加して、その報酬代わりに食事をおごってもらうことが多かったですね。センター街では、ヤマンバ仲間10人くらいでパラパラを踊っていたんですが、見に来た人たちがお菓子とか化粧品、顔につけるシールなんかを置いて行ってくれるんです。大道芸のおひねりみたいなものですね。
パラパラは見に来る人が次第に増えていき、200人くらい集まるように。近くの交番からお巡りさんが出てきて「ここで踊っちゃダメだよ〜」と言われましたが、注意されるくらいで、のんびりしたゆるい時代でした。