ドイツでの治療を決意「絶対に治ると信じた」
── 病院の先生とのやりとりは英語でしていたとのことですが、治療への不安はありませんでしたか。
石田さん:入院してすぐ、「もし日本で治療したいなら、今すぐ帰ったほうがいい」と言われたのですが、小児がんの7〜8割は治る病気だと言われていたので、絶対に治ると信じていました。ドイツに来たときに息子は初めて飛行機に乗ったのですが、フライト中ずっと泣いていて。また長時間しんどい思いをさせるくらいならと、医療大国のドイツで治療を受けさせることを選びました。
先生は私たちにわかるような表現で伝えてくれるのですが、ドイツ語が英語になって、それを日本人の私たちが英語で聞き取って日本語で解釈するということが続くうちに、本当に満足な治療を受けさせてあげられているのかなという不安はありましたが、必ず治すという気持ちでいました。

── 抗がん剤治療を行った当初は効き目を感じていたそうですね。
石田さん:抗がん剤治療を1クール終えたあと少しよくなって、支えがあれば立ち上がれるようになりました。「数値もいいからお家に帰っていいよ」と言われ、一時退院をしました。その後、2クール目も予定通り進んで家に帰ることができました。でも、2クール目の治療を終えて一時退院で家に帰ったら突然、鼻血が出て止まらなくなって。電話をしたら「すぐ来てください」と言われて、そこからまた入院することになりました。鼻血はいい方向に向かっていないといいますか、悪くなっているサインだったのですが、私はまだこの時点では事の重大さに気づいていなくて。
治療もしているし、絶対に息子はよくなるという希望だけを持っていたのですが、ドラム式洗濯機くらいの大きなエコーの機械が運ばれてきて、ベッドにいる息子の検査が始まりました。その後、私と夫が別室に呼ばれて、ただ静かに「この子は死を待つだけです」と言われました。大晦日の日でした。
── 9月に入院して、3か月しか経っていない段階で…。
石田さん:がんが肝臓に転移して大きくなり、肺を圧迫していると言われてレントゲンを見せられたのですが、まるで証拠を突きつけられたような感じがしました。もちろん納得がいかないので、「肝臓って切除しても生きていけるし、私のお腹から生まれたんだから、私のを取って手術して!」と取り乱していました。
医師や看護師さんが数人いたのですが、そのなかのひとりから「こどもホスピスに行きますよね」と声をかけられました。「どうしますか」ではなく「もちろん行きますよね」というニュアンスに聞こえました。
私のホスピスに対する勝手なイメージは終末期の患者さんの緩和ケアを行う場所で、高齢者の方が行くというものでした。もちろんこどもホスピスというものがあることも知りません。言い方がよくないのですが、「生きる希望がない、死を待つ場所で、息子の治療を諦めると言いたいんでしょう」と、怒り半分でその言葉を受け取って、涙が止まりませんでした。ドイツに見捨てられたような気がして、こんな年の明け方ってあるのかなという状況で気づいたら年が明けていました。「ホスピスに行きたくないなら、病院にいてもいいという話だったので、「私たちは治療を諦めていません」と伝えました。
── その後、どうされたんですか。
石田さん:病院の方針としてこの子は助からないと判断した時点で、酸素マスクはしているものの、抗がん剤治療は負担になるので治療は行われませんでした。息子はどんどん弱っていき、寝返りもしなくなって。闘病が始まってからすっかり口数も減ってしまっていたのですが、急に息子が「おうち帰ろか」って言ったんです。偶然そう聞こえたのではなく、その場にいた私と母が驚いて目を見合わせたくらいはっきりそう言いました。
正直、ドイツの家ではまだ思い出を作れていなかったので、きっと福井の家に帰りたいと言っているに違いないと思いました。「私たちを日本に帰して」と先生にお願いしたのですが、「フライトの間に何かあるかもしれないから、許可できません」の一点張り。さらに、「お家に行きたいなら、なおさらこどもホスピスに行ってみたほうがいい」と念押しされました。
そこまで言うならと、夫と知人が施設を見学に行きましたが、私は全然期待しておらず、この人たちを黙らせるために行くだけという気持ちでいました。でも、夫は帰ってくるなり「いいところだった!看護師さんがいる幼稚園みたい。すぐに移動しよう」と。もう私は極限の状態だったので、夫がそこまで言うなら、このまま病院にいてもいいことがあるわけでもないと思い行ってみることにしました。