父の死後すぐに祖父がパーキンソン病に
── 父を見送って間もなく、今度は祖父の介護が始まったそうですね。
後藤さん:大学1年生のときでした。遠方(香川)に住む祖父がパーキンソン病だと診断され、通院で様子を見ていたのですが、ある日、転倒したことをきっかけに容態が急変。呼吸状態が悪化して気管切開が必要になり、祖父は「要介護5」と診断されました。「施設への入居」の選択肢もよぎりましたが、あまりに急な変化に祖父自身がとまどっていて。私たちにとっても大事な祖父でしたから、兵庫の自宅に引き取り、家族で介護することになりました。ただ、祖父の介護は父よりも大変でしたね。
── どんな点で、より大変に感じられたのでしょうか。
後藤さん:病気の悪化で声が出せず、文字盤(言葉でコミュニケーションをとるのが難しい方が、視線や指で文字を指し示して意思を伝えるツール)を作って指差しで会話していました。痰の吸引、経管栄養、床ずれの処置など、目を離せない状態でした。床ずれによって、皮膚や皮下組織などが広範囲に損傷して祖父の骨が露出され、その状態を見るのが怖くなってしまうことも。

夜は祖父のベッド横に布団を敷いて、姉と交代でつき添い、祖父の枕元に置いた呼び出し用のベルが鳴ると飛び起きる日々。ひと晩に2~3回は起こされるんです。正直、眠れないのはきつかったですが、床ずれの痛々しい跡を見ると「いちばんしんどいのは祖父自身」と、責める気持ちにはなれませんでした。あるとき「行かないで、怖い」と繰り返し言われたことがあって、ふだんは強い祖父がそんな弱音を吐くのを初めて聞き、胸が締めつけられるようでした。
介護の時間に区切りはなく、大学生活も工夫が必要でした。先生に相談して、講義は午前中に集中して受けられるように組んでもらい、午後は介護にあてました。母ひとりの稼ぎだけでは心もとなかったので、自分が介護をしない日はアルバイトを3つ掛け持ちし、すべて家計に入れていました。自分の時間は、ほぼなかったですね。
── 同世代がサークルや旅行を楽しむ姿を見て、気持ちが揺れることもあったのでは?
後藤さん:大学でキラキラしたみんなの姿がうらやましくなることはありました。高校からつき合っていた彼氏もいましたが、「なんで次々ときみばかり介護するの?理解できない」と言われ、結局、別れてしまいました。当時は人と深く関わると悲しいだけだなと思って、距離を置くようになっていたと思います。