祖母の認知症と母の心臓病で「もう限界」
── 遊びたい、楽しみたい時期ですから、ふつうなら途中で投げ出してもおかしくない状況です。心が折れそうになったとき、何が支えになったのでしょう?
後藤さん:「航空会社で働きたい」という夢です。小さいころ、家族旅行で沖縄に行った体験がとても楽しくて。その思い出から「空港で働きたい」と強く思うようになりました。3年間の在宅介護の末、祖父は亡くなりました。ちょうどその日、航空会社からの内定を受け取り、夢をかなえることができたんです。うれしさと喪失感が同時に押し寄せ、何とも言えない気持ちでした。
── ついに夢が叶ったわけですね。これで新しいスタートがきれる、と。
後藤さん:そう思っていました。でも、祖父が亡くなった2か月後、今度は母が重い心臓の病気を抱えることに。さらに祖母も肺炎をきっかけに歩けなくなり、認知症も進行して最終的に要介護5に。私は成田空港で働いていた航空会社をいったん退職して地元に戻り、関西の空港で再就職をして、再び在宅介護の日々を送ることになりました。
ただ、空港勤務は早番遅番のシフト制で勤務時間が変動していたため、朝のデイサービスの迎え入れや夕方の介護など、日によって必要なタイミングに合わせて動きやすいことが多かったんです。姉は医療機関勤務で時間の調整が難しかったため、その分、どうしても私に介護の負担が偏りがちで、心がだんだん削られていく感覚がありました。

── 心身の限界は、どんな形で表れていったのでしょうか。
後藤さん:早番や遅番の後の介護で生活リズムが乱れ、眠る時間はほとんどありません。気づけば、涙が止まらなくなることもありました。ある日、祖母の手を拭いていたとき、「痛い!」と突然、怒鳴られたことも。以前は穏やかな祖母だっただけに、その変化が悲しくて、私は心の糸がプツッと切れてしまいました。
介護をしていくなかで感謝の言葉を求めていたわけではありません。でも、祖母には何も伝わっていないように感じて、むなしくなり、泣いてしまったんです。そのうち眠れなくなり、食事も進まず、病院に行くと「うつ病」と診断されました。その間、姉や母、ヘルパーさんが祖母を支えてくれたことで、私は少し休養を取ることができ、気持ちを立て直せました。母は持病を抱えながらも体調を回復させ、姉と一緒に、今も祖母をサポートし続けてくれています。祖母も今、元気に暮らしています。
「ムリをすればまた同じことになるかも」という怖さはあります。だからこそ今は、ひとりで抱え込みすぎないように気をつけていますね。
── 16年の介護経験を振り返って今、同じ環境にある人に伝えたいことはありますか?
後藤さん:渦中にいると、自分がどれだけ大変な状況にいるかに気づけないんです。私自身もそうでした。だからこそ、一度立ち止まって、少し客観的に自分の状態を見てほしいと思います。「これくらいなら大丈夫」と思い込まずに、少しでもしんどいと感じたら、信頼できる人にまずは話してみてください。それだけでも心の重さは変わってくると思います。実際のサポートに関しては地域包括支援センターやケアマネジャーなど、公的に頼れる窓口もあります。
介護では介護者の気持ちが要介護者に伝わっているのか、わからなくなることがあります。言葉が返ってこないと「届いていないのかな」と思うことも。でも、その頑張りは、決してムダではありません。たとえ、言葉が返ってこなくても、相手はきっとあなたの気持ちを受け取っています。ふとした瞬間に見せる笑顔や手のぬくもりが、その証だと思うんです。私も、何度もその笑顔に救われました。だからこそ、その瞬間を見逃さずに、大事にしてほしいと思います。 介護はしんどいことばかりじゃない。つらい時間の中にもたしかにあたたかいものがありました。 あなたの存在は、誰かの生きる力になっています。
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高校生のころから父・祖父・祖母の介護に向き合ってきた後藤さん。誰にも言えず、眠れず、限界まで削られながらも、介護を続けた日々がありました。その経験が、今の仕事につながっているといいます。現在は航空会社を退職し、介護の現場で積み重ねた時間をもとに、介護美容の仕事に携わっているそうです。
取材・文/西尾英子 写真提供/後藤 舞