16歳でお笑いの道に入ることを決めた、お笑い芸人・こじらせハスキーの橋爪ヨウコさん。お笑いと出合う前はサッカーに夢中だったそうですが、高校生のときにけがをしたことをきっかけに断念。一時期、荒れていた時期もあったそうですが、救ってくれたのはある1曲の歌でした。(全3回中の3回)
靭帯断裂でサッカーの夢絶たれて荒れた日々

── お笑いコンビ・おじらせハスキーとして、2019年の「女芸人No.1決定戦 THE W」では準決勝にも進出された橋爪ヨウコさん。お笑い芸人を志したのは、よしもと芸人養成所「NSC東京」に入所された16歳のころだそうですね。ご両親ともに教師という家庭ですが、反対されなかったのでしょうか?
橋爪さん:両親ともに教師だと厳しく育てられたように思われがちですが、うちの両親はとても自由に私のことを育ててくれて、子どもの意思を尊重し、やりたいことはやらせてくれました。
私は小さいころから勉強はそこそこでしたが、大好きなスポーツに打ち込んでいました。剣道やスケート、なかでも特に夢中になったのが兄と一緒にやっていたサッカーです。中学では群馬県で1位になり、MVPを獲得。そのおかげで高校はスポーツ推薦でサッカーの強い高校に進学しました。
── そこからどうしてお笑い芸人に?
橋爪さん:実は高校入学後に試合で脚の靭帯を切ってしまい、サッカーを断念することになったんです。しばらくして日常生活ができるくらいにけがは治ったものの、もう前のように大好きなサッカーをすることはできなくて…。それでしばらくちょっと荒れていたというか、夜に遊び歩いたり、バイクを乗り回したり、学校をサボったりする生活が続いたんです。
── ご両親も心配されたでしょうね。
橋爪さん:そうだと思います。ただ、怒るというようなことはありませんでした。夜中に遊び歩いていた私を、母が夜な夜な探してくれていたことはありますが…。両親ともに心配はしていたと思います。でも、無理に学校に行きなさいと言うことはなかったです。
そんな日々が続いたある日、私の部屋の机の上に、母が大好きなさだまさしさんの『不良少女白書』という曲のCDが置かれていたことがありました。母がやったことだと思うのですが、歌詞カードの一部にマーカーで線が引いてありました。その歌詞がまさに自分のことを歌っているようで…。「転がる方が楽だ」「本当はとても優しいくせに」などの歌詞ですね。自分と同じように自分の夢がわからなくなった少女が悩んでいるその歌詞が、とにかく私の心に響いた。「両親に迷惑をかけているのはダサいかも」と思うようになりました。
── それは素敵なエピソードですね。
橋爪さん:こんなこともありました。ある日、母が仕事を突然休んで、私をドライブに誘ってくれて。当時の群馬県庁の展望台のような場所に行って、街並みを見ながら、母が「世界は広いのよ」と言ったのです。そこから見ると自分が住んでいる場所は小さく、それ以外の世界がとても大きく広がっていて。世の中には私の知らない世界がたくさんあること、けがをして不良になった私なんてすごくちっぽけな存在であることに気づかされました。やりたいことはきっと、これから見つかるはずだと感じましたね。それで改めて、「サッカー以外に好きなことってなんだろう」と将来について考えたら、それがお笑いだったんです。小さいころからお笑いが大好きで、いろいろな番組を見ていたんですよね。
私が「お笑いをやってみたい」と言うと母が調べてくれ、16歳で上京して、NSC東京に入ることになりました。16歳から東京でひとり暮らしになり、高校も通信制に転校してNSC東京に通いながら勉強も続けるという生活になりましたが、両親は反対せずに応援してくれました。私が芸人デビューした後も、両親は可能な限りライブを見にきてくれました。