社会との関係を断ち切るなか「子どもが119番に通報して」

── あらゆる人とのかかわりを断つほど、心身の状態が悪化されたのですね。

 

丘咲さん:そうです。当時30代前半でしたが、完全に私と息子2人だけの生活になりました。私は薄い布団の上で過ごす時期が続いて、トイレにも立てず垂れ流しの状態。まだ未就学児だった息子はひとりでコンビニに行って、自分が食べるものを買ってくるような生活でした。そのなかで、息子なりになんとかしなければと思ったのでしょう、私が教えた「119番のかけ方」を思い出して救急車を呼んだんです。それがきっかけで、私は再び社会と医療につながることになりました。このとき、もし私がひとりきりだったら、命は助かっていなかったと思います。息子は、こんなに小さい時期にどれだけしんどい想いをしていたか…。息子には、言葉では伝えきれないほどの感謝の思いがあります。

 

丘咲つぐみ
運営する「Onaraカフェ」のスタッフと

── 社会とつながることができて本当によかったです。

 

丘咲さん:ひとりのケースワーカーとの関わりからそこまでの状態に陥ったことは、私のなかで何よりしんどい体験でした。生活保護によって経済的に助けられたけれど、精神的には本当に苦しい思いをしました。そのころは、ケースワーカーと両親のことが心底憎くてしかたなくて…いっそこの手で命を奪いたいと思い詰めたこともありました。

 

── 社会とのつながりをご自分で断ち切らざるを得なくなって、想像できないほど苦しい心理状態だったのですね。

 

丘咲さん:結局、4年ほど生活保護を受けているあいだも手術を繰り返し、リハビリを毎日頑張って、電車の乗り降りができるところまで回復しました。そこからすぐに税理士事務所で事務のパートを再開し、同時に生活保護を抜けることができました。

 

その後も2年ほどは働きながらお金を貯めました。金融機関の審査は通らずお金を借りることができないので、たりないぶんはリボ払いに頼るほかありませんでした。問題なく頼れるように計画を立てつつ、税理士の専門学校の費用に充てていました。そこまでしても、税理士になりたかったんです。その後、税理士試験を受験し、合格と同時に大きな税理士法人へと転職することができました。そうして生活が徐々に安定していくなかで、両親を憎み続けてきた気持ちが、「2人とも大変な家庭環境で育ってきたんだ」と認める、諦観の気持ちに少しずつ変わっていったように感じます。

 

被虐待者の方にはそういう場合もあると思うのですが、今でもどこかで両親に愛してほしかったと思っているし、「殺したい」くらいに憎んでも、「いてほしい」という気持ちはあったんだと思います。