「地震が起きたら何をするべきなのかわからない」

── 阪神淡路大震災で被災されて、自宅も失われたとのこと。被災状況はどのようなものだったのでしょうか。

 

間さん:忘れもしません、地震が起きたのは1月17日の早朝でした。当時、寛平さんは東京での仕事が多く、関西の自宅は不在がちでした。でも、私と娘が1月15日生まれで同じ誕生日なんです。だから数日前に寛平さんが東京から連絡してきて「15日は帰れないけど、16日に誕生日会をしよう」と。16日の夜はみんなで家でお祝いのご飯を食べて過ごしました。

 

寛平さんは誕生日のお祝いでお酒を飲んで、その晩は酔っ払ってぐっすり寝ていました。私と寛平さんは1階が寝室だったんですけど、その日に限って中学2年生の息子が熱を出したので、私は2階で息子と寝ていたんです。そしたら、グラグラっと揺れがきたから、「何事?」と思って飛び起き、びっくりしてとっさに息子に覆いかぶさりました。

 

隣の部屋が娘の部屋だったので「ちょっと、そこにじっとしときなさいね!」と叫んで、真っ暗ななか、地震で散らかった床に苦戦しながら私が息子の手を引いて階下に行きました。寛平さんが寝てるところまで行って、息子の手と寛平さんの手を繋がせて「慎太郎を頼むよ、外の公園に出ていてください」って言って寛平さんに引き渡したんです。寛平さんが「お前はどこ行くねん?」と。「お姉ちゃん(娘)を連れて降りてくる」って私が言って。それで、2階の娘の部屋に戻り、今度は娘を下に連れて降りてきたんです。なんとか家族が家の外に避難したんですが、そのときに、近所の甚大な被災状況を目の当たりにしました。

 

外は混乱していました。避難するにもどこに行くとか、まず何をするべきかがわからなくて。今でこそ、震災の教訓から「こうしましょう」というのがあるじゃないですか。当時は本当に、私も周りも地震についての知識が何もなかった。正直、私は「地震」とすら思わなかったくらい。ただただ、状況を消化していくしかない。みんなご近所同士で助け合いましたね。寛平さんは近所で生き埋めになった方を救出に行きました。

 

家はもう住める状態ではありませんでしたから、そこから中学校に避難しました。大事なものを持っていきたいとか、持ち物を整理したいとか思いましたが、消防の方が巡回しておられて、「ガス漏れがあるので家に戻らないで、一刻も早く出てと」と。

 

── 大地震に遭遇し、緊迫した状況は相当のものだったかと思います。全壊となると避難所でしばらく暮らしていたのでしょうか?

 

間さん:避難所には数日いました。数日経っても震災で電車が動いていなかったので、2駅先にある不動産屋まで歩いて行って、賃貸のマンションを借りました。そこからは避難所を出てそこでしばらく生活していました。

 

全壊した家をどうするか悩んでいても仕方がないので「建て直そう」と決めて、それからは早かったです。1月に震災があって、その年の12月には新しい家に住むことができました。だから、まだ私たちは恵まれていたと思います。