母の姿から学んだ「人と交流する」大切さ

── 気丈に生き抜かれたお母さんを支えていた原動力はどこにあったのでしょう?

 

柴田さん:やっぱり「人との交流」を絶やさなかったことじゃないでしょうか。地域の友人や古い知り合い、教え子や習い事の生徒さんなど、老若男女、いろんな世代の人と幅広く関わっていました。そうやって人とつながり続けることで、母自身が元気をもらっていたのだと思うんです。

 

長年、教師をしていたので、地元には4世代にわたって教え子がいて、退職後も習いごとの先生を続けていました。だから、どこの病院や介護施設に行っても「先生!」と声をかけられ、孤独とは無縁。そうした人とのつながりが、母のバイタリティを支えていたのかなと。

 

柴田理恵
脚に障害のある愛犬・晴太郎と一緒に

── まさに地域に根ざした人生を送られていたのですね。

 

柴田さん:いまでも印象に残っている光景があります。母が入院していたとき、70代になった教え子たちがお見舞いに来て、「先生!」と呼びかけながら、まるで子どものような表情で楽しそうにおしゃべりしていたんです。そのやりとりを見て、母にとっては何歳になっても「かわいい教え子」なんだと感じました。彼らを下の名前で親しげに呼んでニコニコと話す母は、いつも以上にハツラツとして見えました。

 

若い看護師さんたちともすぐに打ち解けて、「柴田さんはよく話を聞いてくれる」と喜ばれていましたね。そんな母の姿を見て、私もこんなふうに、いろんな人と関わりながら生きていけたら、きっとこれから先の人生も笑顔でいられるのだろうなと思ったんです。

「ニコニコとご機嫌」母は最期まで人生の師

── 幸せな老後は自分で作る。お母さんは、最後まで柴田さんにとって「人生の師」であり続けたのですね。

 

柴田さん:本当にありがたいですよね。私も母を見習って、いつもニコニコ、ご機嫌でいることを心がけています。不機嫌な人の周りには、誰も寄ってきませんから(笑)。

 

── 周りを元気にする柴田さんの笑顔はお母さんゆずりなのですね。

 

柴田さん:仕事の現場でも、どんなに忙しくてもスタッフや後輩に「大丈夫、大丈夫」と笑顔で声をかけるようにしているんです。そうすると、不思議と空気がやわらいで、自分の気持ちも前向きになれるんですよね。人生には苦しいときもありますが、笑顔を心がけていれば、気持ちも上向きになります。私も母のように、誰かの心を少しでも明るくできる人でありたいと思っています。

 

 

遠距離介護で柴田さんがしたのは、母の人生を肯定するような心のコミュニケーションを重ねることでした。いっぽうで、柴田さんも母の生きざまに触れ、「老い」や「人生の締めくくり」を自分のこととして考えるようになったといいます。人とのつながりを絶やさず、前向きに生きる姿勢は、今の柴田さん自身にも受け継がれています。

 

取材・文/西尾英子 写真提供/柴田理恵