東京都議会議員を2期務めた入江のぶこさんは、お天気キャスター時代にフジテレビの報道記者だった入江敏彦さんと出会い、結婚。海外に赴任した夫を支え、妻として2児の母として充実の日々を送っていましたが、取材中の事故で夫が急死。失意のどん底からどのように再起したのでしょうか。(全3回目の2回)

古巣でがむしゃらに働き契約社員から管理職へ

── フジテレビの特派員だった夫・入江敏彦さんの海外赴任に帯同したものの、1994年に夫が小型飛行機墜落事故で亡くなり、当時6歳と生後11か月の2人のお子さんとともに帰国。それ以降は、お天気キャスターとしてかつて活躍されたフジテレビで契約社員として働かれていたそうですね。

 

入江のぶこ
かつて入江さんが手がけた子ども番組の人気キャラ・ガチャピンとムックが登場するイベントにて

入江さん:両親が健在だったので、帰国後は実家で子育てをする選択肢もありましたが、当時の上司が「働きたいなら、週3日でもいいからフジテレビで働きなさい」と言ってくださって。私も息子ふたりを育てるために、社会とかかわりを持ってしっかり生きていきたいと考えていたので、「働かせていただきます」と返答しました。

 

── 育児と仕事とはどのように両立されていましたか?

 

入江さん:最初は契約社員で週3日勤務の予定だったのですが、結局は週5日以上働いていました。「自分にできることは精いっぱい頑張りたい」一心だったんです。そういった部分を評価をしていただき、その後、中途採用で社員になりました。最終的には、編成制作局で主任や副部長、部長職を経験できたので、会社には本当に感謝しています。 

 

── テレビ局では、どのような業務を担当していましたか?

 

入江さん:編成制作局で働くなかで、「少しでもママやパパ、お子さんたちに夢を与えたい」という思いが一貫してありました。子育て中だったので、子どもがいる家庭にいろいろな情報が提供できる番組があればいいのにといつも考えていましたね。局内には子育て中の女性社員が多かったので、ママサークルのようなものをつくって情報共有し、番組企画を提案して『子育てれび』という番組を実現しました。ガチャピンやムックでおなじみの子ども向け番組『ポンキッキーズ』などやイベントも担当していました。

 

── 結婚後まもなく専業主婦になり、夫の海外勤務に帯同して4年近く海外で生活されていたのですよね。7年のブランクを経てテレビ局社員として勤務することになったわけですが、不安はなかったのでしょうか。 

 

入江さん:当時はまだ、ケニアという異国の地で、夫が事故で焼け焦げた遺体となってしまったことを完全には受け入れられておらず、苦しみのなかにいました。自分にとってこれに勝る困難はないと思っていましたし、新しい環境で働くストレスよりも、夫が突然、亡くなったという事実がもたらすストレスのほうがずっと大きかった。それに、息子たちのためにも母親の私が働くのはいいことだと思っていたんです。周りの方々の配慮もあり、働くことに関しての不安はなく、やるべきことに専念できました。でも、家に帰って子どもたちにご飯を食べさせて寝かしつけると、悲しみが急に襲ってきて。キッチンの隅でひとりしくしく泣いていたことがありました。

 

── シングルマザーとしてがむしゃらに働くなかで、新しい家族をつくりたいと考えたことはあったのでしょうか?

 

入江さん:フジテレビに勤めるようになって、夫の上司だった方が私たち家族を気づかい、やさしく接してくれたんです。新しい家族の形を目指して同居した時期もあったのですが…結局うまくいかなくて。子どもたちは私の気持ちを察して、「これからはお母さんと僕たちだけで暮らそうよ」と言ってくれました。振り返ると、子どもたちにはいろいろな苦労をかけたと思います。でも、その経験があったから、さらに母性が深まった気がします。彼らにはとにかく、生きていてくれてありがとうという気持ちです。

 

── 入江さんの置かれた状況やお気持ちに対して、息子さんたちの理解が大きかったのですね。

 

入江さん:子どもたちには感謝の気持ちしかないです。ふたりにとっては、父がこの世から去ったあと、当時の記憶が曖昧なまま生きていくことになって。彼らのせいではないけれど、子どもたちに父がいないという十字架を背負わせてしまったことは変えられない事実で、申し訳なさでいっぱいでした。だから、私にとっては、子どもたちが元気で生きていてくれればそれで十分だったんです。