悲しいほど仕事ができない自分がコントで褒められて
── 2024年3月に『R-1グランプリ』でアマチュア史上初のファイナリストに。同年3月には会社を退職し、5月に関東に移住してプロの芸人として活動を始めたそうですね。どのような経緯があったのでしょうか。
どくさいさん:新卒から十数年、会社員として働いてきたのですが、僕は本当に仕事ができなくて…。そこそこの進学校に通っていたので勉強はできるほうだったと思います。でも、みんなが普通にできることができない。そんな場面がすごく多くて…ずっとしんどいなあと思っていました。
それが、コントを始めたら周りから褒めてもらえるようになったんです。しかも、『R-1グランプリ』という大きな賞レースでファイナリストになれた。それで「もしかしたら、会社員よりコントをやる芸人のほうが向いているのかも」って思い始めたんです。やれるところまで、お笑いをやってみようかなって。
ちなみに、芸名を考えたのは大学時代です。「どくさいスイッチ」はドラえもんの道具なんですが、原作ではのび太が使用法を誤って世界中の人間を消し、この世で独りぼっちになってしまいます。このエピソードから転じて、「僕はひとりぼっちでもお笑いを頑張っていくぞ」という意味を込めて名づけました。

── 会社で仕事が上手くいかず悩んでいたのに、コントでは周りの評価が一変したんですね。
どくさいさん:そこから「もっとお笑いをやりたい」という気持ちになりました。でも、当時働いていた会社が「副業禁止」で…。それまでは、落語も含めて「お笑いは趣味」という扱いだったから、会社は黙認してくれていたんです。でも、『R-1』に出場したことで、「これは副業に当たるのでは」と指摘されてしまって。このままだとお笑いを続けられないかもしれないと思ったし、会社と話し合いも重ねるのも厳しくて。「もう会社にはいられないな」と腹を括り、退社しました。
── 会社を退社したうえに、拠点を大阪から東京に移すというのは、かなりの覚悟が必要だったと思います。
どくさいさん:大阪では、お笑いなら吉本一強、という状況です。しかも、仮に吉本に所属できたとしても、劇場に所属するためのオーディションに勝ち上がる必要があります。劇場に来るお客さんは若い世代なので、自分の芸風と合わないのではないかと思っていて。それなら、無理に大阪でお笑いをやることはないと判断しました。
── 大阪から関東に引っ越して、驚いたことはありますか?
どくさいさん:引っ越してあらためて感じたのですが、大阪は街同士が近いんです。梅田と難波は電車に乗ったらすぐだし、いろんなカルチャーにまとめてアクセスしやすかったと思います。いっぽうで東京は、隣駅でも全然違うエリアになる。山手線の駅でもひと駅違うだけで、全然違う街なんですよね。
── たしかに山手線だと、大久保と新宿、原宿…という具合に、異なったカルチャーが隣接しています。
どくさいさん:最初は「ひと駅でこんなに印象が変わるのか!」と驚きました。それに、大阪は「お笑いが楽しいことのメイン」だったけれど、東京だとそれ以外のエンタメの選択肢がめちゃくちゃ多いですよね。それらと肩を並べて選んでもらえるように、頑張らなければならない。だから本当におもしろくないとやっていけないなと覚悟しました。
自分がエンタメ業界の人間じゃなくて、普通の会社員だったら「楽しい」で終わっていたと思います。でも自分が演者の立場に立った今は「これは頑張らないと」と。プレッシャーもありつつ、あらためて気合を入れています。