娘たちが成人「届いたLINEに涙が止まらなくて」

── 扉が開くまでの間、どんなふうに関わっていたのでしょう?

 

宮川さん:長女と向き合える唯一の時間が、食事のときでした。でも、「今日どうだった?」とは、聞かないようにしていました。本当は聞きたい気持ちでいっぱいでしたが、詮索されていると感じさせるのは嫌でしたし、ムリに踏み込めば逆効果だろうなと思ったんです。

 

だから代わりに、「今日はこんなことがあったよ」「この人のここがすごかったな」といった具合に、ひたすら自分の話をするようにしていました。そうしていれば、娘が話したいと思えたときに、自然と話してくれるんじゃないかと信じていたんです。気持ちを理解したくて、心理学や育児本もたくさん読みました。

 

閉ざされていた扉が開きだしたのは、高3くらいからです。最初は1日にひと言、ふた言でしたが、次第に会話が増えていき、その後はどんどん距離が縮まっていきました。いまでは僕のよき理解者です。

 

── 長い時間をかけて試行錯誤しながら、お子さんたちと向き合ってこられたのですね。日常生活ではどのようなことが印象に残っていますか?

 

宮川さん:2人とも私立の中高一貫校に通っていましたが、意外と学校行事は少なかったんです。ただ、6年間お弁当作りは大変でしたね。メニューがマンネリにならないようにお弁当の本を見て研究したりして。それ以外にも毎日の雑務に追われ、1日があっという間でしたね。朝食とお弁当を作りながら子どもを起こし、送り出したら掃除、洗濯、買い物、夕飯の準備…。「主婦ってこんなに大変なんだな…」と思い知りました。

 

仕事がある日は、元妻の両親に助けてもらいながら、シチューやカレーなどを作り置きして、「火にかけるときはかき混ぜてね」などとメモを残して出かけました。食べ終わった食器がシンクに置いてあるだけで、「食べてくれてよかった」とうれしかったですね。

 

── 男手ひとつで家事をこなすのは、苦労が多かったと思います。お子さんたちに家事の協力を求めたりはしなかったのですか?

 

宮川さん:しなかったですね…。いま思えば、「完璧な父親」でいたかったんだと思います。大人の都合で子どもたちを振り回してしまった負い目があって、「離婚しても幸せだった」と、思ってほしかったんです。子どもたちには不便な思いや苦労をさせまいと、意地になっていた部分もあります。だから、どんなに大変でもグチや弱音は吐かず、背中をみせるしかないと決めていました。子どもたちが無事に成長してくれる姿が、僕にとっては生きる支えでした。

 

そうした思いが伝わったのか、長女が大人になってから「パパ、あのころはありがとう」と言ってくれたことがあって、思わず胸が熱くなりました。次女からは、結婚するときにもらった長文のLINEが心に残っています。

 

宮川一朗太
つらいワンオペ時の唯一の楽しみだったのは馬主生活で、一口馬主となったネオユニヴァースはダービーも制覇

── どんな言葉が綴られていたのでしょう?

 

宮川さん:「パパ、すごく大変だったと思うけど、頑張ってくれてありがとう。パパの娘として生まれてきて、本当に幸せだったよ」といった内容でした。恥ずかしながら、途中で画面が読めなくなるほど、号泣してしまいましたね。

 

── そんなお子さんたちも、いまでは社会人として独立されました。2年前にはお孫さんも誕生されたとか。

 

宮川さん:そうなんです。すごくかわいいですね。ただ、「じいちゃん」とは呼ばせず、「いっくん」と呼ばせる予定です(笑)。男の子なんですが、一緒にキャッチボールをするのがいまから楽しみなんです。でも、そのころには僕も70代ですからね。豪速球を受け止められるように、体を鍛えておかなくちゃいけませんね(笑)。

 

 

離婚後、シングルファザーとして当時中高生だった娘たちを育て、いまや孫までいる宮川一朗太さん。2年前には元妻が亡くなりましたが、最期の時間を自宅で看取ることになります。別れた相手だけど、見捨てることはできなかった境地。子どもたちの心情を最優先し、苦労を悟らせまいと奮闘した日々。思春期の娘さんとの関係に悩みながらも、寄り添い続けてきた宮川さんの深い愛情を感じます。

 

取材・文/西尾英子 写真提供/宮川一朗太