母の干渉が激しくなり、感情が溢れ出して

Yuna
小麦色の肌に白のトップスが似合う

── 家庭での居場所がなかったYunaさんにとって、学校はどんな場所だったのでしょう?

 

Yunaさん:中高時代は、かなりやんちゃでした。女子グループのボス的存在で、殴り合いのケンカはしょっちゅう。草むしりの罰を何度も受け、高1のときには先輩とのケンカで停学処分にもなりました。振り返ると、学校が家庭での不安やストレスを吐き出す場所になっていたのかもしれません。

 

── やんちゃな行動はストレスの反動だったと。当時、お母さんとの関係は、どんな様子だったのでしょうか。

 

Yunaさん:母は昔から人に無関心で、子育ても放置ぎみでした。学校での出来事や成績にも関心を示さず、停学になったときも「へえ~」で終わり。でも、子どもだから、やっぱり親に褒めてもらいたいし、寄り添ってもらいたいという気持ちはずっとありました。ただ、それは私にとって「聞いたことがあるけれど、現実には見たことがない」、幻のようなもの。「伝説のユニコーン」のような存在でした。

 

── まるで「都市伝説」のような。

 

Yunaさん:そうでしたね。母自体、いつも心が不安定で、自分が生きるだけで精いっぱいだったのかもしれません。教育や生活面では無関心でしたが、恋愛には過剰に干渉してきました。

 

特に、「恋愛はダメ、つき合うのもダメ」と口酸っぱく言われ続けていました。反発していても親の言葉って、無意識のうちに心に刷り込まれていくんですよね。自分の感情にだんだん蓋をするようになって、恋愛にも否定的になっていました。母は、自分と同じ失敗をさせたくなかったのでしょう。でも、私は息が詰まりそうだった。そして大学受験をきっかけに、母との距離がさらに開いていきました。

 

── 子ども時代、親にかけ続けられた言葉の影響は、大きいですよね。受験では、どんな出来事が?

 

Yunaさん:本当は日本の大学に進学したかったんです。でも母から「日本の男性は変態ばかりだからダメ」と根拠のない理由で反対され、大ゲンカに。お互い口をきかなくなり、ご飯のときも私だけ呼ばれない。受験を控えた大事な時期に、半年間の冷戦状態が続き、心のダメージが大きく、ストレスで体調を崩しました。

 

最終的に日本の大学を諦め、ハワイの大学に進学を決めたのですが、そのときの母の表情がすごく満足そうだったんです。それを見て「私自身を愛しているのではなく、自分の思い通りになったことがうれしいだけなんだ」と心がスッと冷めていくのを感じました。「もしかしたら、この人は私の敵かもしれない」。そんな気持ちすら芽生えました。その後、初めて彼氏ができたことで、母の干渉が激化し、関係はさらに悪化。20歳のころ、ある出来事があって、絶縁に至りました。

 

── 何が決定打になったのでしょう?

 

Yunaさん:きっかけはささいなことでした。母がテーブルに置いたグラスから水滴が垂れて、大切にしていた時計が濡れてしまったんです。思わず「なんでここに置くの!」と声を荒げたら、怒った母が殴りかかってきて。殴られる前に反射的に殴り返してしまいました。自分の身が危ないと、本能が働いたのかもしれません。人生で初めて母に手をあげた瞬間でしたが、後悔はしていません。幼いころからずっと心に封じ込めてきた憤りが、一気に溢れ出したんです。

 

その後、母は親戚に電話をかけ、「Yunaを勘当する。助けたら縁をきる」と言い放ち、私の荷物を全部外に投げ捨てました。そこから母とは絶縁し、7年間連絡も絶ちました。

 

── 抑えてきた感情が解放された瞬間だったのですね。

 

Yunaさん:当時、初めて彼氏ができて、大学では信頼できる友達にも出会え、バイトをして経済的な自立も少しずつ果たせるようになり、自分の居場所ができ始めた時期だったんです。それまでは、いくら反発しても限界がありましたが「母がすべてじゃなくても生きていける」と気づき、気持ちが軽くなりました。幼なじみとルームシェアをしながら、週5、6日のアルバイトで学費と生活費を稼ぐ毎日は大変でしたが、心ははるかに自由になりました。