家庭は「心の安全基地」にはなってくれなかった

Yuna
東京の夜にたたずめば周りの景色さえ変えてしまうYunaさん

── 複雑な家庭の状況について、お母さんはどのように向き合っていたのですか?

 

Yunaさん:母は父のことをとても愛していました。ただ、私が北京に引っ越してからは、父が3か月に1度くらいしか帰ってこなくなり、ふたりの関係は徐々に悪化。父との言い争いが増え、母の情緒は不安定になり、ひとりで泣いていることもありました。そうした姿を見るたび、「私が守らなくちゃ」という気持ちが強くなり、「どう振る舞えば母が困らないか」をいつも最優先で考えていました。だから、親に甘えた経験がほとんどなく、唯一言ったわがままは「ゲームボーイが欲しい」でした。いつも母の顔色を伺っていたので、家庭は私にとって息苦しい場所で「心の安全基地」にはなりませんでした。

 

母は、自分のことで精いっぱいだったこともありますが、そもそも子どもに対して無関心だったように思います。

 

── 無関心とは、具体的にはどのような状態だったのでしょう?

 

Yunaさん:たとえば、幼稚園からのお手紙は2週間に1回くらいしか見ないから、園で何か起きているのかも把握していなかったし、「今日どうだった?」と聞かれることもほとんどありませんでしたね。通っていた幼稚園は徒歩10分の距離なのに時間通りに迎えに来ることもなく、妹と2人でいつも最後まで残っていました。週末は昼まで寝ていて、ご飯を作ってくれなかったので、クッキーを食べて過ごしたことも。それでも、子どもだから、母親のことがやっぱり無条件に大好きだったんです。

 

── 幼いYunaさんにとって、心のよりどころになるような場所はなかったのでしょうか。

 

Yunaさん:なかったですね。10歳で北京に越してきた当初は、中国語が話せず、学校でいじめを受けていました。でも、頼る相手はどこにもいないので、自分で居場所を確保しないといけません。そこで、独自のサバイブ術を編み出したんです。