NSC入学後は2度目の不登校と挫折を経験

── 大学卒業後には吉本興業の養成所・NSCに入学されました。コンビ結成のきっかけやコンビ名の由来を教えてください。

 

石山さん:就職活動のために帰国したものの、同級生はみんな就活が終わっていて。行くところがなかったので、いちばん安い専門学校を探したらNSCが見つかったんです。両親は反対してたんですけど、「1年だけ頑張りたい」と言って、バイトで入学金を貯めてNSCに入りました。

 

入学初日にトイレに行ったら、おしっこをしてる最中に、今の相方の藤田が「このあとご飯行かへん?」って声をかけてきたんです(笑)。僕は関西人とコンビを組みたいと思っていたので、とりあえず出身地を聞いたら「大阪」と。しかも、お互いサッカー経験者で年齢が1個違いだということもわかって。「共通点があるうえに、GLAYやラルクが好きな同世代。俺はボケをやりたくて、藤田はツッコミをやりたい。ピッタリじゃないか!」と、コンビを組むことになりました。ただ、いざコンビを組んでみたら、藤田が関西弁じゃなかったんですよ(笑)。コテコテじゃないどころか標準語でツッコんできて。「関西弁じゃないやん!」と思いながら漫才を始めました。

 

そんなある日、「コンビを組むんやったら決めてた名前がある」って藤田が言い出して。それがバンビーノやったんです。藤田は以前イタリア料理店に就職していたので『バンビ~ノ!』というイタリア料理の漫画を読んでいたみたいで。僕も了承して、正式にコンビ名が決まりました。

 

コンビを組んだばかりのころのバンビーノ

── そこから「ダンソン」でブレイクするまでには紆余曲折もあったそうですね。

 

石山さん:そうですね。NSCで漫才をした初めての授業ではすごくほめられて、夏の選抜組に入れたんです。選抜組のみんなが漫才をしていたので「コントをやったら目立つかもしれへんな」と思ってやってみたら、Aクラスに上がることもできて。順調な滑り出しだったものの、Aクラスは新ネタを毎日作らないといけないんです。でも、コントはアイデアが浮かばないと作れない。プレッシャーから藤田とケンカが多くなり、実はその年の8月ごろに解散したんです。解散によってCクラスに落ちてしまって。大ケガを負った高校時代と同様、ここからまた不登校ですよ。NSCに行かなくなりました。

 

ただ、尊敬していた先生がいたので、その授業だけは出席していたら、年が明けたころに「石山、このままでいいんか?このままやったら消えるで。お前はバンビーノじゃないと売れへんで」と先生に言われたんです。そこで、再結成を持ちかけようと意を決して相方の家に行きました。

 

藤田は当時、そのときの彼女と同棲していたんですけど、数か月ぶりに会ったらめっちゃ幸せ太りしていて(笑)。お金なんてないはずなのに、「ご飯食べる?」って出してくれた彼女の手料理がめっちゃ品数多くて。食後に「お菓子も食べる?」って出してくれたポテチがファミリーパックで。その様子を見たら「こんなでっかいコンソメパンチ食べるなんて、こいつもう裕福やん!めっちゃ幸せやん!こんなやつにもう1回お笑いやろうぜとは言われへん」と思ってしまって。

 

結局その日は何も言えなかったんですけど、卒業公演が間近に迫っていて、藤田が別のコンビを組むかもしれないという噂も出ていたので、後日、「卒業公演だけでいいからコンビ組んでくれへんか?」とお願いして再結成しました。

 

再結成後、ネタ見せに臨むと「こんなコント、大阪で見たことない」とほめてもらえて。Cクラスでは普通は1分間しかネタができないはずやのに、時間を延長してもらえたんです。自分でも手ごたえがありましたし、5組しか選ばれない選抜にも入れて…少し図に乗ったんです。でも、いざ尊敬している先生の前でコントをやったら、同期も先生もクスリともせず。「おもんないなあ。これが半年間、学校サボってお笑いをやらんかったお前らの実力や。バンビーノが今、いちばんおもろない!」って先生に言われて。その日は雨やのに傘を持ってなくて、当時住んでいた大国町までコンビで濡れながら歩きました。おもしろいと思っていた人に「おもろない」と言われた日の挫折は、今でも思い出しますね。

 

卒業後はお客さんを笑わせるというよりも、その人におもしろいと思ってもらえるようにという意気込みでやってたんですけど、結局2、3年くらいは舞台に出られなくて。1か月に1回出番があればいいほうでした。コーナートークのときも、みんなは「この前、鹿児島に営業に行ってね…」とか「収録でね…」とかトピックが豊富なんですけど、僕は仕事がなくてバイトを4つぐらい掛け持ちしていたので、小さな世界の話しかできなくて。どうしたらトークできるねん、どうしたら前に出れるねん、と自問自答する日々でした。