高校生のころ、サッカーの試合中に後遺症が残るほどの大ケガを負い「不登校になりかけた」と話すバンビーノ・石山タオルさん。懸命なリハビリと受験勉強を経て、大学合格とブラジル留学を果たした石山さんですが、お笑いの道では「また不登校と挫折があった」と言います。(全4回中の2回)
後遺症で「今も指先の感覚はない」
── 高校2年生のとき、サッカーの練習中に脳挫傷1歩手前の大ケガを負いました。懸命なリハビリを経て現在に至るとのことですが、今も後遺症はありますか?
石山さん:今も指先の感覚はないです。鉄板を触ったときに「熱っ!」っていう反応ができなかったり、小さいコーヒーシロップは8割こぼしたりします。
ゴールポストに打ちつけた頭の神経がところどころ欠如しているからか、位置感覚もなくなってしまいました。ケガが回復したあと、サッカー自体は少しずつできるようになっていったんです。でも、ジャンプした後にどのあたりに着地すれば地面があるのかがわからなくなったので、ヘディングができなくなってしまって。当時、前線の選手だった僕にとっては致命的で、大きな挫折を味わいました。
だから、ヘディングができない欠点を補おうと、胸トラップを異常に練習しました(笑)。「筋肉をつけすぎると速いボールが来たときに弾いてしまうから、ここには少し脂肪をつけなあかん」とか、めちゃくちゃ研究して。ほかにも、ベンチに座った状態でマネージャーにボールを投げてもらって左足だけで蹴ったり、やわらかいボールでヘディングを試みたり、リハビリサッカーみたいなこともしていましたね。
部活を引退して大学の合格通知をもらってからは、小学生のころに所属していたチームのコーチが「せっかく頑張って愛媛県代表のキャプテンにもなったのに、サッカーを辞めるのはもったいない」と言ってくれて、コーチのお手伝いをすることになったんです。それをきっかけに、教えることにも興味を持つようになりました。
── 小学校の卒業文集では「ブラジルでサッカーがしたい」と書いていたそうですが、京都外国語大学に進学後、実際にブラジルに留学されます。留学はコーチングを学ぶためだったんでしょうか?
石山さん:もともとは語学を勉強しに行ったはずなんですけど、気づいたらサッカー留学みたいな感じになっていました。と言うのも、大学の第二外国語ではポルトガル語を選択していたんですけど、ポルトガル語学科の子よりも試験の成績がよくて。ブラジルに行けるという話があったので留学したんです。そうしたら、サッカーコーチをしている現地の人に出会って。「俺は日本人に教えたことがあるよ。(元プロサッカー選手の)山瀬功治さんって知ってるか?彼がブラジルにいたとき、教えたことがあるんだ。明日サッカーの練習があるから来てみたら?」と言ってくれたんです。
翌日練習に参加してみたら、目の前でボールの上に乗られたり、誰も僕のマークにつかなかったり、「日本人にはボールを回すな」という声も聞こえてきたりしました。パスが全然回って来ないので、やけくそになってドリブルで相手を抜いてシュートを打ったら、結果的に2点ぐらいに絡んだんです。そのプレーをコーチがみて「お前、うまいから明日から来たら?」とチームに誘ってくれて。日本でいうJFL(アマチュアのトップリーグ)のような大会に出られるようになりました。左サイドに元ブラジル代表選手とかがいる環境で、半年以上はサッカーをすることに。コーチングに関しては日本の教え方とは異なるので、帰国後に日本でD級ライセンスを取得しました。

── 異国のチームに馴染むためにどんな工夫をされましたか?
石山さん:練習に初参加した時点で、自分が差別されていることやバカにされていることはチームメイトの目を見ただけでわかりました。でも僕は中学生のときにオーストラリアへ、高校生のときに韓国へ行ったことがあって、ブラジルに留学するまでにも海外を知る機会がちょこちょこあったんです。海外を経験するなかでわかったのは結局、仲良くなるには下ネタがいちばん早いということ(笑)。なので、下ネタの話をしたり、一緒にクラブに行ったりして馴染めるようにしました。
一緒に夜ご飯を食べてクラブに行って踊っているうちに、チームメイトにウケ始めて、仲間として受け入れられるようになって。「ブラジル人にこんなウケるんやったら…」と気が大きくなったことも、芸人になったことに繋がっているかもしれないですね。
ブラジルに馴染みすぎて、帰国したときの僕なんて、髪の毛をコーンローにして槍みたいなものをお土産に持ってきてましたからね(笑)。松山空港に迎えに来た両親が僕やと気づかずに一瞬通り過ぎたぐらい、ブラジルでウケたことや劣悪な環境で頑張ってきたことは自信になったと思います。