「治らない病気と知らされて」ストーマ手術を決意

── 高橋さんは、自身の疾患について理解していましたか?

 

高橋さん:低学年のころは病気について、まだよく理解していませんでした。クローン病は治らない疾患で、一生つき合っていくものだと知ったのは小学校の高学年のときです。当時は母に連れられ、1か月に1度、車で1時間くらいかかる病院に通院していました。あるとき、ふと「いつまで通院するの?」と母にたずねると、「クローン病は治らない病気だからずっと通うんだよ」と言われたんです。

 

当時は、母の食事管理のおかげで体調を崩すことはほとんどなくて、「治っている」くらいの感覚でいた私は、本当にびっくりして…。「でも、現代の医療であれば、死に直結する病気ではないから。いまは治らなくても、いずれは治療方法が見つかるかもしれない。上手につき合っていこう」と母は言ってくれました。母の前向きな言葉のおかげで、私は落ちこまずに済んだんです。

 

高橋めいこ
クローン病と診断後、食事制限をしていたころ

小学校の間は元気に過ごせていましたが、成長するにつれて症状がまた出てきてしまって…。お尻が炎症を起こし、中学生のときは痛みと戦っていました。クローン病の症状が出やすい部分は人によって異なるのですが、私はお尻が弱くて…瘻管(ろうかん)といって、ウミがたまるトンネル状のものができやすかったです。瘻管ができるまでには、いくつかの段階があります。最初は肛門と直腸の間が化膿して、うみがたまっていきます。そのうみが皮膚を破ってトンネルのようになっていくんです。症状としてはいわゆる「あな痔」と似ています。私はいつも瘻管ができていたから肛門付近にジクジクとした痛みがありました。座るのがつらくて、円座クッションを持ち歩いている時期もありました。

 

── 痛みはどのように対処したのでしょうか?

 

高橋さん:高校1年生のとき、瘻管にたまったウミを出すため、手術してお尻に医療器具の管を通すシートン療法を受けることになりました。この手術を受ければ痛みは軽減するのですが、ずっとお尻に管が通っている状態になります。思春期だったこともあり、積極的にやりたくはありませんでした。恥ずかしかったし、将来、結婚や出産も難しくなるかもしれない…という絶望感もあって。でも、痛みをなくすためにはしかたがありませんでした。最初の手術では1か所だけでしたが、ウミがたまる場所がだんだん増えていき、最終的には4か所に管を通しました。

 

しかも、幼いときから症状が悪化してはよくなるのを何度も繰り返しているうちに、肛門狭窄(こうもんきょうさく)といって、お尻の穴が狭くなってしまったんです。便が出にくくなり、日常生活を送るのも大変になって…。ふだんは「金属ブジー」という親指より太い棒をお尻に入れて広げ、便を出していました。大学生になってからはさらに排便が困難になり、1週間に1度は「お通じをする日」と決めて、外出せず家に引きこもって下剤を飲んでは排便をうながしていました。

 

恥ずかしかったし、自尊心はボロボロ。「私、何やっているんだろう…」と落ち込むときが多かったです。排泄に時間がとられ、体調がよくない日もあり、4年で大学を卒業できず、5年間通いました。こうした状況を変えるため、23歳のときストーマ(人工肛門)を造設することに決めました。