「万が一のことがあったらどうするんですか?」

── たとえば、どんな場面において「できるまで待つ」を実践されてきたのでしょう。
金澤さん:わかりやすい例を挙げると、料理です。翔子は昔から料理をすることが好きだったのですが、翔子が料理を始めたら家族はその最中は決して台所に立ち入らないというルールを決めていました。近くで見ていると手や口を絶対に出してしまうので、あえて見ないし近づかない。火災だけが心配だったのでガスからIHコンロに切り替えましたが、それ以外は彼女を信じて任せていました。そうやって苦戦しながらも作ったものを翔子は私に食べさせてくれるのですが、わが子が作ったものだからおいしいに決まっています。「おいしいね」「ありがとう」と伝えると、それが翔子の自信になるし、達成感が生まれるから次の挑戦へとつながっていく。その繰り返しで翔子は少しずつ成長してきましたし、今は立派に夢だったカフェのウェイトレスをしています。
生活力は、社会の中で育つものです。私はダウン症の子を育てていくなかで、学校や社会とこれまでに何度も戦ってきました。トラブルを恐れる学校側が「ひとりで通わせるのは危険です」「万が一のことがあったらどうするんですか」といくら言ってきても、「万が一を恐れていては育てられません。ひとりで通学できる子にします」と主張して信念を貫きました。もちろん最初は手を繋いで送迎をしましたが、「次からはひとりで行けるようにしっかり道を覚えてね」と伝え、ひとりで登校させました。私はただひたすら、後ろからそっと見守ることに徹しました。親が覚悟を持って、その子を信じ、手を離して見守る。それが本当の意味での「子育て」だと私は思っています。
でも、そう思えるようになるまでの道のりは本当に長かったです。苦しんで苦しんで、それでも翔子がただ生きてくれていることの尊さに気づいたとき、私はようやく幻想を捨てて、彼女自身の人生を尊重できるようになりました。
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現在は夢だったカフェ店員として働く翔子さん。きっかけは母・泰子さんが80歳を迎え、終活を考えるようになったことだと言います。ダウン症の娘を残しては「このままでは死ぬに死ねない」
取材・文/阿部花恵 写真提供/金澤泰子・ND CHOW