「親が覚悟を持って、その子を信じ、手を離して見守る。それが本当の意味での子育てだと私は思っています」と語る金澤泰子さん。しかし、ダウン症の娘・金澤翔子さんの子育てにおいて、その境地に辿り着くまでには長く、苦しい道のりがあったそうです。(全3回中の2回)

ダウン症の翔子さんの才能を伸ばすために…

金澤翔子
東京・大田区久が原で育った翔子さん

── ダウン症の書家として有名になった娘の翔子さんですが、小学校時代はSEKAI NO OWARIのメンバーと同級生だったそうですね。

 

金澤さん:ええ、そうなんです。翔子は小学3年生まで東京都大田区の小学校の普通級で過ごしたのですが、SEKAI NO OWARIのFukaseくん、Nakajinくんの2人は翔子が小学4年生で特別支援学級へ転校するまでのクラスメイトでした。つい先日も私が大通りを散歩していたら、通り過ぎた車から「金澤さん!」と男の人の声がして、誰だろうと思ったらFukaseくんでびっくりしました。まだこの地元で縁がずっとつながっているようでうれしかったですね。

 

今、翔子は生まれ育った東京都久が原のカフェで働いており、そこにはSEKAI NO OWARIとのコラボレーション作品を飾っています。過去に森アーツセンターギャラリーで開催した翔子の展覧会で、Fukaseくんが紡いだ楽曲『銀河街の悪夢』の歌詞の一節を翔子が揮毫し、コラボレーションしたものです。そのことを偶然、再会できたFukaseくんに伝えて「いつかカフェに見に来てね」「行きます」といった言葉を交わしたところでした。

 

Nakajinくんは小学生のときから高校を卒業するまでの間、ずっと私の書道教室に通っていた元教え子でもあります。真面目で、書道もとても上手な、魅力的な子でしたね。翔子とNakajinくんはずっと同じ空間で書道に打ち込んできた仲間でしたから、10歳で難しい字を書きながら苦悶していた翔子の姿を彼はよく覚えているそうです。彼が大人になってから再会して、そのことを聞かされたときは本当に驚きました。

 

書道歴が長い彼が、「翔子ちゃんの字を見ると勇気づけられます」と感想を伝えてくれたこともうれしかったです。みんな、とてもいい子たちですよ。

 

── 1クラスから3人もの著名なクリエイターが生まれているとは驚くべき偶然ですね。ダウン症の翔子さんの才能を伸ばすために、泰子さんが子育てにおいて大切にされてきたことは?

 

金澤さん:「競争をさせないこと」「幻想を捨てること」「覚悟を決めて手を離すこと」。この3つでしょうか。子育てにおける私の最終目標は、ずっと「自立させること」なんですね。だから私は世間からみたらおそらく厳しい母親に見えたと思います。少なくとも、決して過保護ではなかった。なぜなら、翔子がダウン症を持って生まれてきたからには、いずれ私がいなくても生きていけるように自立した人間に育てるという目標ができたからです。

 

だからこそ、誰かと比べてどうこうなんていう競争の目線で翔子を見ることをまずやめました。「競争も大事だ。みんなで競い合って伸びていくんだ」という考え方は、親、大人たちの幻想ですよ。競争させるほうが楽だからそう仕向けているだけ。そうではなくて、眼の前にいる子どもをまっすぐに見てあげてください。そのうえで、自分の幻想を押しつけることをやめる。そうすればきっと、子どもはそれぞれ独自の歩みをしていくはずです。

 

でもそれ以上に難しいのは、おそらく覚悟を決めて手を離すことでしょう。障害を持つ子の親であればなおさらです。「この子は成長がゆっくりだから」「自分がやったほうが早い」「ひとりで任せたら危ない」など、親はいろんな言い訳を考えてつい手を出してしまうのですが、それはやっぱり当人のためになりません。だって自分がやろうとしている最中に、先回りして手を出されたり口うるさく言われたりしたら、誰だって嫌なものです。障害を持つ子だって、それは同じです。だから私も翔子を育てているときは、「できるまで待つ」ことを常に心がけてきました。