「死ぬかも…」と思ったときのことを忘れている

鈴木美穂
がんと闘った友人の山下弘子さんと海で

── 当時の鈴木さんは会社員だったと思うのですが、設立にあたってそのあたりは問題なかったのでしょうか?

 

鈴木さん:実は「Cue!」までの活動は会社には相談せずにやっていたんです。ただ、マギーズセンターは資金を集めてNPO法人として運営するためさすがに黙ってやるわけにはいかず、会社に相談しました。最初は共同代表として関わることは会社の了承を得られなかったのですが、会社を辞める覚悟で相談したところ、報酬をもらわないボランティアという形で共同代表になるならばと許可が下りました。

 

しばらくは二足のわらじでがんばっていましたが、2019年に会社を辞め、現在はマギーズ東京やがん対策に関わる業務を中心に働いています。

 

── 会社を辞めたのには、なにかきっかけがあったのでしょうか?

 

鈴木さん:大きな影響を受けたのは、がんを経験した者同士で、妹のように慕っていた山下弘子さんの言葉でした。

 

弘子さんは19歳でがんになり余命半年を宣告されましたが、再発や転移を繰り返しても病気とつき合いながらやりたいことに次々と挑戦していくバイタリティのある女性。出会ったのは、友人が「美穂と仲良くなれそう」と送ってくれた彼女のブログを読んで衝動を受けて大阪まで会いに出かけ、密着取材を始めたことがきっかけでしたが、そこからいろいろなことを話しました。

 

弘子さんによく言われたのが「美穂さんは仕事が第一すぎる、会社のためにそんなに働く人生でいいのか」ということでした。私自身、仕事が大好きで、病気になる前も治療して復帰後も生活のために無理してとかではなく、心底仕事がしたいと思って働いていました。でも弘子さんから言わせると「美穂さんは病気であんなにつらい想いをしたのに、元気になって、自分が本当に死ぬかもしれないと思ったときにやりたいと思ったことを忘れている。また同じような状況になったらきっと後悔する」と。

 

── それがきっかけで生き方を考え直した?

 

鈴木さん:そうですね。それでも彼女が生きている限りは彼女の生きざまを伝え続けたかったので、辞めるつもりはありませんでした 。しかし2018年、彼女が25歳で亡くなり、それはもう叶わなくなったんです。

 

記者という仕事にも、区切りをつけてもいいと思えるようになっていました。記者の仕事は話を聞いて伝えることで、そこにいる人を助けることはできない。困っている現状を伝えることはできても、現状を変えることは難しい。初めてそれを痛感したのは東日本大震災が起きて現地に取材に行ったときでしたが、いつか取材で話を聞いて伝える立場から、直接役に立てる方法を見つけて行動できる立場になりたいと思うようになっていました。そんな思いもあって退職し、夢のひとつであった「自分にしかできない仕事」ができるようになるために、自分にできることを精一杯することにしました。