父の姿を見て「差別は絶対に許されない」

── 被害者意識を持たずに過ごせたのはなぜだと思いますか。

 

カビラさん:子どもながらに「しょうがない」という気持ちがあったんです。当時の沖縄はアメリカの統治下にあって、自分の母はアメリカ人。変えられない事実を諦観していたように思います。あとは父方の親戚の影響が大きかったと思います。

 

ジョン・カビラさんと父の朝清さん
沖縄で戦後初のアナウンサーだった父・朝清さんと長男のジョン・カビラさん

祖母は、アメリカから来た私の母をあたたかく迎え入れてくれていました。親戚づき合いは多かったのですが、自分の出自に対して意識するような言葉をかけられたことは一度もありません。父は6人兄弟の末っ子で、父のいちばん上の兄とは20歳も離れていました。末っ子の子どもということもあって、親戚中からかわいがられていました。あとは、父が僕ら兄弟の前で、差別は絶対に許されないという姿勢を見せてくれていたのも大きかったと思います。

 

── お父さんは沖縄での戦後初のアナウンサーとして活躍されたと伺っています。どんな方ですか。

 

カビラさん:小学校低学年のころに兄弟で遊んでいたら、家の修復工事に来ていた大工さんから、「君ら、パンパンの子だろう」と声をかけられたんです。よく意味はわからなかったものの、人を蔑む言葉で、きっといけないことを言われているんだろうなというのは、なんとなく表情からわかりました。

 

仕事から帰ってきた父にその話をしたら、父は大工さんのところに僕らを連れて行って、「私たちの子どもはパンパンの子ではないし、そもそもそういう表現は非常によくないと思う」と冷静に言っていました。父は続けて、「そういう境遇に生まれた子どもや女性に対しても、決して蔑むことは許されない」という話をしていたんです。パンパンというのは、米軍を相手にする日本人売春婦を指す言葉だというのを後から知りました。

 

大工さんたちは平謝りで、バツが悪そうにしていました。こういう父の姿を見ているので、何があっても絶対に差別は許されないし、いろんな環境で生まれ育っている人がいるということも絶対に覚えておかないといけないというのは幼心に学んできました。父は当時にしては珍しいタイプだと思いますけど、仕事で伝え手としての正確性と公平性を持つこと、人に接する際は、先入観や予断を持たないということを大切にしていたのは、普段の姿を見ても明らかだったと思います。